日英関係

日英関係についての考察

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英外務省内の路線対立 日英不可侵協定を巡り

英国内の「帝国派」と「財政派」からの強い支持もあり、俄に現実味を帯びてきた日英不可侵協定の締結であるが、肝心なマクドナルド首相と英外務省が消極的であった。ただ外務省内でも積極派はおり、一枚岩というわけでもなかった。 まず、英外務省側のキーマ...
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日英米の三角関係

戦略的、地政学的な観点から英国の「帝国派」は、伝統的に日本との連携に肯定的であったと述べたが、1930年代の「財政派」は経済的な観点により日英連携に積極的であった。英国は中国大陸に多くの権益を持っていたが、混乱の続く中国情勢を好ましく思って...
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英国の「帝国派」とは

1928年に英国内で日英同盟の復活が検討されたことは以前に述べた。この復活案が実現することはなかったが、実はその後も日本との連携は模索されていた。特に興味深いのは、日本が国際連盟を脱退したその翌年、つまり1934年に英政府内で「日英不可侵協...
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有田外相と日英関係

1938年5月に外相に就任してから日英交渉を重ねてきた宇垣一成外相は、同年9月28日、大臣の職を辞した。これには英国も驚いたようで、タイムズ紙は宇垣外相辞任のニュースを報じている。辞任の理由も、興亜院設立をめぐる外務省と陸軍の対立によるもの...
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宇垣一成と日英関係

1930年代に悪化した日英関係を改善しようという試みの中で最も期待が持てたのは、1938年の宇垣一成外相のそれではなかったろうか。陸軍大臣経験者の大将(予備役)、宇垣外相は親英派と目されていたし、交渉相手のクレーギー駐日英大使は熱心な関係改...
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親中の英経済界

蒋介石が貿易協定を提案してきたことは先に述べた。それと同じ時期に、英経済界からも英政府に要請があった。その内容は、もっと中国と商売をできるようにして欲しい、ということであった。確証はないのだが、この二つの動きは連動しているのではないだろうか...
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蒋介石、英国に経済協定を提案

ヨーロッパの西部戦線に、軍事使節や中国人労働者の派遣を計画した蒋介石であるが、英国懐柔策はそれだけに留まらなかった。次に蒋介石は、経済協定の締結を申し出てきたのであった。これに関与したのが、当時ロンドンの中国大使館に滞在していた郭秉文氏(K...
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蒋介石、西部戦線に労働隊派遣を計画

蒋介石は軍事使節を西部戦線に派遣したいと英国に打診したことは、前回述べた。それは英陸軍省が断ったため、実現はしなかった。しかし、そのひと月後、今度は中国人の労働隊を西部戦線に派遣する計画が持ち上がった。それに対する日本の新聞の反応を、クレー...
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蒋介石、西部戦線に軍事使節派遣を望む

英外務省の公文書で次のようなものがある。日付は1939年10月4日で、第二次世界大戦が勃発した一月後である。ちなみに、真珠湾攻撃の2年前である。 The Counsellor of the Chinese Embassy stated to...
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英国の蒋介石支援 武器輸出

1937年5月に蒋介石が英国に軍事協力を要請したことは以前に述べた。それは同年7月7日に発生した盧溝橋事件、つまり支那事変勃発の以前であったことは留意しておくべきだろう。それから約2年が経過した1939年、日英関係、英中関係はどうなっていた...