戦略的、地政学的な観点から英国の「帝国派」は、伝統的に日本との連携に肯定的であったと述べたが、1930年代の「財政派」は経済的な観点により日英連携に積極的であった。英国は中国大陸に多くの権益を持っていたが、混乱の続く中国情勢を好ましく思っておらず、それを共同して好転させるパートナーとして日本を見ていた。また、日本との関係強化が極東にける財政負担の軽減につづながるだけでなく、強くなりすぎた米国に対する牽制にもなると考えられていた。実は、当時の英国政府内には、反米的な勢力がまだ力を持っていたのである。
チェンバレン財務相など、その「親日反米」の頭目であったといえよう。
1934年にチェンバレンが提唱した日英不可侵協定の締結には、反米的な要素が少なからず含まれていた。チェンバレンは、1935年の第二次ロンドン軍縮会議では米国の言いなりになって日本の感情を逆撫でしてはいけないという趣旨の発言をしていた。当時、日本は日英米の間での軍備の平等を求めていたが、7:10:10の比率改定にアメリカ否定的で、英国に共同歩調を求めていた。つまり英国は、米国をとるのか日本をとるのか、選択を迫られていたわけだ。ここでチェンバレン財務相の「親日反米」路線を支えたのがフィッシャー財務次官であった。
フィッシャーは、不満足なワシントン海軍条約を米国が強引に押し進めた結果、何の不都合もない日英同盟を破棄させられたことに憤っており、米国に対する不信を度々表明するほどの反米派であった。そして、「親日反米」のチェンバレン・フィッシャー路線は経済界からの後押しも得ていた。
1934年3月14日の閣議では、チェンバレンの日英不可侵協定の提案を大勢が支持したという。アイレス=モンゼル海相、サイモン外相もこれに賛成した。しかし、肝心のマクドナルド首相が親米派であった。この協定はアメリカからは同盟に見えるという理由で首相が消極的であったのだ。さらに、外務省のオーデ極東部長が筋金入りの反日親中の人物であった。
この結果、日本との関係改善をめぐって、英財務省と外務省の路線対立が生じたのである。外務省としては米国の協力なくして第二次ロンドン軍縮会議の成功も対独ヨーロッパ防衛も覚束なくなるのだから、反米路線など考えられなかったろう。ここで米国がどのように出てくるかは言わずもがなである。
英国の「帝国派」と「財務派」が親日的であったのに、それを活かせなかったのはつくづく残念である。
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