第45回 ポートブレア編(24)
三橋又一氏は、東京帝国大学法学部独法科を卒業した人で、アンダマン島海軍司政官であった。昭和二十一年六月二十六日、シンガポール・チャンギーにおいて刑死した。享年四十五歳。遺書は次の通りである。
遺言
〇〇様、〇〇様
私は国家に御奉公してこの世を去つて行きます。然し良心に恥ぢる所なし。私は去年十月以来毎晩夢を見て内地に帰つて居ります。お前の所に何回も行きました。〇〇の夢も見ました。亡祖父母及〇〇様の夢を見て逢つて居ります。
唯両親に対して相済まぬ。〇子の面倒を見て下さい。〇〇が待つているから淋しくない。あの世に於て〇〇と仲よく暮します
世の中を真面目に暮し努力して生涯を貫いて呉れ。尚貯金は約二千円を熊本貯金局に預けてあるから受領して呉れ。悲しむべきではない。何事も運命であります。今迄私が何回となく教示してある事を忠実に実行して努力の人として人生を過して呉れ。
(中略)
私は南方に於て身を国家に挺して働く事は当然の事であり結果に付いては言ふべき時でない。
私に代つて両親に孝養を尽して呉れ。左様なら
昭和二十一年五月二十一日
多田美好氏は元海軍二等機関兵曹で、三橋氏と同じ日に刑死した。享年三十三歳。次のような遺書を残している。
遺書
母上
長い間色々御厄介になりました。此の度の件お国の為に一生懸命働いたのですが敗戦と云ふ大変動で戦犯人として刑を受ける事になりました。然しお母さんの教へを守り家の名を辱しめる事は決して致しませんでした事を嬉しく思つて居ります。大らかな気持ちで喜んで国難に殉じて参ります。唯生前何等の御孝養を尽すことなくそれ計りが心残りです。どうか、お母さん何時迄もお元気で幸福にお過し下さいます様お祈りして居ります。判決のあります前夜お母さんにおぶつて頂いて川を渡つた夢を見ました。私は随分仕合せでした。何もかも唯なつかしく凡て夢の様です。
親思ふ心にまさる親心今日の訪れ如何にきくらん
お母さん私は死んでは居りません。何時も何時もお傍に居ります。
小崎福一氏は元警察官で、戦時中は海軍上等兵曹として任務に当たっていた。上記の二人と同日に刑死した。享年四十五歳。遺書は次の通り。
遺言
母上
長い間の御世話を有難く思つて居ります。何一つの孝養を尽さず先立つ罪何卒お許し下さい。何日迄も御壮健であられん事一重に祈り上げます。年老いた母上に誠にあつかましく思いますが妻子の事何卒宜敷お願ひします。
妻〇子殿
お国の為に働いて今その難に殉じて参ります。長い間本当に良く面倒見て戴いた事をしみじみうれしく思つております。御身は病身故呉々も身体に注意して末長く幸福に送つて下さる様一家の生計、子供の教育、総て母上兄弟と相談の上、処理せられ度(汝の信仰汝を救う)。私も神の御側で一家の幸福と再建を祈つてゐる。よき妻、よき弟を持ち私は安心して逝かれます。事件の内容詳細は堀江村高橋様をお訪ねして聞いて下さい。終りにのぞみ親類の方々御近所によろしくお伝へ下さい。共に働いた永翁兵曹と一緒です。
国の為め身は南海に沈むとも霊は永遠に大和国を守らむ
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