第3回 日高巳雄 法務少将 (一)
玉の緒の切るるきはまで憶ふかなすめらみ國の春は如何にと
この一首は、日高巳雄(ひだかみねお)陸軍法務少将の遺詠である。伊藤義光憲兵曹長の遺書の中に書き留められてあったものである。日高法務少将は昭和二十二年四月十七日、シンガポールのチャンギー刑務所で絞首台の露と消えた。享年五十三歳であった。この遺詠からも知られるように、日高法務少将は教養高き人格者であった。死刑判決後、日本からシンガポールの英当局に寄せられた助命嘆願書に多くの人々が名を連ねていたことがそれを裏付けている。この日高少将と戦犯裁判について述べていきたいと思う。
日高少将はシンガポールに置かれた南方軍総司令部の法務部長の職にあったため、当時オートラム刑務所に収容されていた俘虜たちを虐待し、死に至らしめたという容疑で英国軍に裁かれたのである。その起訴状には次のようにある。
「(四四人の被告等は)一九四二年二月十五日から一九四五年八月十五日に至る間、シンガポール市内オートラム・ロード刑務所に置かれた陸軍刑務所に於いて、共謀の上、戦争の法規及び慣例に違反して、同所収容中の連合軍俘虜、抑留者及び一般市民に対して為された虐待及び無為に因って英国人俘虜十三人、和蘭人俘虜四人、民間人二十二人を死亡するに至らしめ、その他多くの英蘭米俘虜と民間人に肉体的苦痛を与えた」
裁判は昭和二十一年八月八日に開廷し、同年十月十日まで行われた。この裁判の恐ろしい所は、たったこれだけの起訴状で四十四人が一挙に起訴されたということである。その訴因は詳細には述べられておらず、三年六か月の間のに起きたとされる罪状がたったこれだけの文章で片づけられているのである。
これはどう見ても、戦犯容疑者個人を裁くというより、南方軍陸軍刑務所という組織を裁くことが目的であったとしか思えない。個人の罪状の細かいことはどうでもよく、組織の中の何人の首が取れるかが問題なのだ、という印象を受ける。そしてこの裁判の結果、大塚操法務少将、日高巳雄法務少将、小林庄造少佐、矢島光雄大尉、後藤辰次憲兵准尉の五人に絞首刑が言い渡された。この中にはどういうわけか、刑務所長は入っていないのである。この時既に死亡していたのか、行方が不明だったのか、はっきりしたことは分からないが、刑務所の最高責任者である刑務所長、そして刑務所長の上官である南方軍総司令官はこの裁判では裁かれず、その代わりに法務部長であった大塚法務少将と日高法務少将が、法務部と刑務所は別組織であったにも関わらず、引っ張り出された形なのである。
殊に日高少将の扱いは異例であった。日高少将の逮捕は昭和二十一年七月三十一日で、そのわずか八日後の八月八日には公判開始となった。当然ながら、当初の起訴状には日高少将の名前は含まれていなかったのであるが、公判の数日前になって俄かに起訴状に加えられてしまったのである。それは日高少将の被告人番号にも見ることができる。この被告人番号は、被告人が複数いる裁判では必ず用いられていたのだが、階級の上のものから番号を割り振っていくのが通例である。故に被告人番号の一は大塚少将である。そして日高少将の番号は当然二となるはずなのだが、実際は四四であった。
このオートラム刑務所に陸軍刑務所が設置されたのは昭和十七年八月一日であり、それ以前は憲兵隊が管理する囚禁場として使われていた。指揮権が全く別の系統であるから、ここで期間を区切って別個に立件するのが、筋というものである。また、陸軍刑務所となってからも、その中の職員は一年や二年で入れ替わっていくので、起訴状にある期間を全うできた者などいないのでる。それを一つの起訴状で立件する英国人の頭にはオートラム刑務所の中で死んでいった仲間のことしかなく、細かな日本人の区別などはどうでもよかったのであろうか。
陸軍刑務所になってからの三年間で死亡した外人囚は十数人であった。いずれも病死であった。それも、囚禁場時代に不適当な管理で衰弱した病人が、陸軍刑務所になってから死亡した事例が約半数で、残りは戦争末期に食糧薬品が逼迫した結果であった。しかし、起訴状には四一人が死亡したとあり、これは囚禁場時代の死亡も含めていると考えるのが妥当であろう。起訴状の原文には「in the Military Section of the OUTRAM ROAD Prison」とあり、囚禁場も陸軍刑務所も区別されていないのである。英国にとっては、日本人がオートラム刑務所で俘虜たちを虐待したとして裁判ができれば、他の細かなことはさして重要なことではなかったらしい。
検察はまず、この刑務所で俘虜虐待が繰り返されていたということを具体的に立証せねばならない。その上で、被告人たちがこれに関与していたということを立証しなければ、彼らを有罪にはできない。特に大塚少将と日高少将は刑務所の関係者ではないので、彼らの関与については緻密な立証が求められる。しかし、実際に検察が主張したことは、この二人の法務部長には刑務所職員への監督責任があったということだけである。その根拠となったものは、法務部長が総司令官の補佐であること、法務部長による刑務所巡視が数回あったこと、刑務所からの報告書が法務部長宛てにおくられていたという断片的な事実であった。これを検察が継ぎ合せていくと、大塚少将と日高少将は刑務所に於ける俘虜虐待の事実を知りながら黙認し、状況を改善する責任を果たさなかったという罪状ができあがったのである。
実際、大塚少将と日高少将は法務部長として、任期は別々だが、寺内南方軍総司令官の補佐という立場ではあった。しかし、南方軍刑務所は総司令官直属の組織であり、法務部とは別の指揮系統で動いていた。法務部長は法務業務全般について総司令官に助言をする立場にあるから、その職務上刑務所を視察することは当然のことではある。そこで職務上の接触があるのは当然だが、それと監督責任は別である。また、その刑務所で虐待が行われていたとしても、抜き打ちの視察でない限り刑務所の実状を把握することは難しいだろうし、刑務所側が虐待をわざわざ報告するとは考えにくい。
したがって、この二人の法務少将を責任者として起訴するにあたり、検察はかなり乱暴な理屈を使ったことになる。その結果、二人は絞首刑に処せられた。
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