第4回 日高巳雄 法務少将 (二)
四十四人が一度に裁かれた、所謂「オートラム刑務所」裁判において、裁判長を務めたのはルガレ判事であった。四十四人の運命がこの裁判長の手に委ねられたといっても過言ではない。裁判長は検察と弁護側双方の言い分を静かに聞いているわけではなく、時には自ら証人や被告人に質問したり、検察官や弁護人をたしなめたり、法廷という空間を支配する絶対的な存在なのである。またそうでなければ、法を司り、裁きを下すことなどできはしない。この絶大なる力を持つルガレ裁判長の下、ウィザーズペイン検察官、弁護側にはベイン、岩口、藤原の三人の弁護人がつき、裁判が行われた。裁判は一審制で、控訴は認められなかったが、シンガポール管区司令官のコックス少将が判決を承認して初めて刑が確定するので、判決後この司令官に嘆願書を送ることは許されていた。
嘆願書のために減刑となった例は英国のBC級裁判には少なからず存在する。このような嘆願書で最も効果を発揮したのは、本人や家族、友人からのものではなく、かつては敵の立場にあった英国人から寄せられたものであった。そのような誠実な英国人によって救われた日本人が僅かながら存在した。「日本軍は許せないが、しかし、この判決はいくら何でも重すぎるだろう。私はこの日本人を知っているが、そこまで悪くはなかった」といった内容のもので、このような嘆願書を英国人から受け取った司令官が、これを無視することは容易ではなかったようだ。
また、裁判の概要をまとめ、それに自分の意見を加えて司令官に報告書を提出する役目を負ったデイビス准将も、やはり減刑に欠くことのできない存在ではあった。大半の裁判においてデイビス准将は司令官に宛て、判決をそのまま承認するように助言したが、デイビス准将から見ても不当と思われる判決については、減刑を助言する場面もあった。このような助言に対して、コックス司令官は殆どの場合これを受け入れた。このように、死刑判決を受けてから刑が確認されるまで、一縷の望みを持つことはできた。
この裁判で五人に死刑の判決が言い渡された後、日本から多くの嘆願書がシンガポール管区のコックス司令官に送られた。家族、友人、上官、同僚、部下が中心となって嘆願書を提出したのだが、その中に名前を連ねた人々の数は千を超えた。これは昭和二十一年十月十二日付の日本経済新聞の二面にこの裁判に関する記事が掲載されたことにもよるだろう。とにかく、日本におけるこの五人に対する同情は並々ならぬものがあった。それにもかかわらず、減刑の措置は取られなかった。それはなぜか。その理由は、英国側の文書に指摘されていたが、日本側の嘆願書は情に訴えるばかりで、理に訴える力に欠けていたのである。これは文化の違いとしか言いようがないが、裁判の判決は法理によって決まるものなのだから、やはり理を以てこれを動かすのが筋だというのである。BC級戦犯裁判を考えるとき、やはり文化の壁は無視できない。裁判の方式からして、英米式と大陸式で大きくことなるが、日本はその近代化の過程において大陸式裁判を採用したため日本人は英米式裁判には不慣れであるし、それに加えて言語自体が全く違うというのは被告や弁護人にとっては著しく不利な条件であった。それはこの裁判にも垣間見えた。
あるとき日高少将の上官であった沼田中将が証言台に立ち、刑務所長やその上官の南方軍司令官が責任者であり、大塚少将や日高少将のような「助言する立場の者」に責任はないと証言したのだが、この証言は判決に対してほとんど効果がなかったといってよい。英国側はなぜこの証言を軽くみたのか。なぜこの重要性が解らなかったのか。単に解ろうとしなかっただけかもしれない。英国側が日本側の真意を本当に理解できなかった可能性も否定できない。しかし、裁判記録をよくみると、引っかかる点がひとつあるのである。
筆者は大塚少将や日高少将の立場を敢えて「助言する立場の者」と表現したが、英国公文書館の裁判記録ではそれは「staff」となっている。その日本語訳は正しくは「参謀」である。しかし、参謀とは最高司令官と軍の組織をつなぐ、極めて重大な職責を担っている者のことである。例えば、米軍の最高司令官は大統領であるが、その下にいる制服組のトップは統合参謀本部議長であり、それを英語に直せば「Chairman of the Joint Chiefs of Staff」である。したがって、これは飽くまでも筆者の推測であるが、実際は参謀ではなかった日高少将や大塚少将の地位が「staff」と訳された時点で、英国側はこの二人の責任を問わない訳にはいかなくなり、二人が何を言おうが責任逃れにしか聞こえなかったのではなかろうか。
もちろん法廷には通訳がいて、意思の疎通は可能であったが、言葉を駆使して闘う場である法廷において、些細なニュアンスの違いが重大な結果を招く可能性があるということは知っておいていただきたい。しかし、通訳とて人間であり、間違えることもある。そういう間違いを責めるのは酷というものである。問題となるのは、意図的に嘘や誇張を証拠に紛れ込ませていた場合である。
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