第53回 ポートブレア編(32)
中山氏と藤江氏は、防備の工事を担当していた。中山氏は自らの証言で4回の平手打ちを認めたが、それは上官の命令ではなく、工事担当者として行ったと述べた。検察からの中山氏への反対尋問はなかった。
藤江氏もハリ・ダスへ2、3度平手打ちを加えたことを認めたが、平手打ちの後、藤江氏は喫煙所へ行き同僚たちと雑談していたという。2人ともハリ・ダスを事件の時に初めて知ったという。検察による藤江氏への反対尋問もごく簡単なもので済ませられた。
この裁判の最も重要なポイントは、ハリ・ダスが逮捕され家に帰された日から1日、2日の後に彼は死亡したということである。これは被告たちも検察証人も皆認めている。被告たちを傷害致死で有罪にするには、先ずハリ・ダスの死因を特定し、その死因と被告たちの行動の関連を立証しなければならない。ハリ・ダスは他殺だったのか、自殺だったのか、病死だったのか。この程度の検察の証拠では何も立証できていない。盗みを行った者に対し、同僚の現地住民が集団で暴行を加えた可能性もあるのだ。
1946年6月1日、判決後、田中氏は自分の房の中でタオルで首を吊ったという。遺書は残されていなかった。田中氏は喘息を患っており、7日間は出廷するのに適さないと書かれた5月31日付の病院の診断書だけが残されていた。
中山氏は以前に、2人の現地住民を助けたことがあった。1人はハベロック島へ連れて行かれそうになった労務者で、彼が監督していた者ではなかったが、取り戻したという。もう1人は、その労務者の友人を雇ってやり、島へ送られてしまうのを防いでやった。
藤江氏の供述書には奇妙な点がある。供述書の署名が藤江武雄となっているのである。しかし藤江氏の本名は竹夫である。自分の名前を間違える者がいるのだろうか。中山氏の署名も筆跡が微妙に異なっていた。
誠に奇妙な事件、そして裁判であった。
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