秘録 BC級戦犯裁判 44

靖國神社灯籠 秘録 BC級戦犯裁判
靖國神社灯籠

第44回 ポートブレア編(23)

日本軍にとってアンダマン諸島は、インド洋を臨む防衛の最前線であり、戦略上きわめて重要なところであった。そのため、海軍からスパイ掃蕩の指令が出されていた。つまり、スパイ容疑に対する徹底した捜査が指示されていた。今回の事件の被告たちは全員、当時、捜査官として現地で任務につき、スパイ事件捜査にあたっていた。この捜査班は海軍直属の組織に編入されたため、警察組織からは切り離され、法的には軍人の身分と変わらなかったという。したがって、捜査や取り調べは海軍の命令に基づいて行なわれていた。こうして、永翁秀雄、多田美好、小崎福一、奥村仙一、林保雄、三橋又一、橋田進、三上吉丸の8名が起訴され、そのうち三上を除く7名が有罪となり、永翁、多田、小崎、三橋、橋田の5名が絞首刑に処せられた。

彼らの罪状は、ポートブレアでの現地住民虐待致死であった。全部で4つの罪状で起訴されたが、林のみに対する第4の罪状については無罪判決が言い渡されたので、実質的に罪状は3つである。第1の罪状は、1944年8月22日から1945年8月19日の間にポートブレア住民を虐待し、肉体的な苦痛を与えた、となっている。第2の罪状は1943年10月10日から44年3月31日の間にポートブレア住民を虐待し、その結果サンガラ・シン他12名を死に至らしめ、加えて、レハルカル他15名に肉体的苦痛を与えた、とある。第3の罪状は1944年6月5日から8月22日の間にポートブレア住民を虐待し、ニランジャン・ロル他7名に肉体的苦痛をあたえた、となっている。

検察によると、1943年10月から1945年8月までの間、被告らは文民の捜査官として現地捜査当局に勤務していた。しかし、その期間ずっといた者もいれば、その一部だけいた者もおり、被告によりそれぞれ期間は異なる。この期間に、4つの大きなスパイ事件が発生し、多くの現地住民にスパイ容疑がかけられた。そして、三橋被告が捜査の指揮をとり、被告たちは捜査にあたった。検察が主張するところによれば、被告たちは、取調べのために拘置所に勾留された多くの容疑者たちを暴行、拷問したとされる。その結果、取調べを受けた容疑者から間違った自供が引き出され、スパイ活動を認める形になったという。被告ら自らが拷問を行っただけでなく、インド人警官にも同様のことを命令し、それを監督したとされる。拷問には、暴行、水拷問、逆さ吊り、腹部、腿、恥部に火のついた蝋燭や紙をあてること、焼いた釘を爪の下に押し付けること、などがあったという。この拷問の結果、少なくとも1名が死亡し、他の被害者も自供に基づいて処刑された。以上が検察の主張である。

検察の証人として法廷で証言したアブダル・ワハブは、事件当時、拘置所の事務官として働いていた。その他、宣誓供述書を提出した者、法廷で証言した者は、スパイ事件で取調べを受けた者たちだった。この裁判では、自供を強いられたために処刑された被害者がいるということで、5人の被告に死刑判決が言い渡されたが、判決には特記事項があり、起訴状にある被害者の数名の名前が削除された。これは、起訴状や証言、宣誓供述書は杜撰なものであったと認めているようなものだ。

その杜撰な起訴状によると、三上は電気を用いた拷問を行ったという。しかし、三上はこれを否定した。通訳として現地で働いていた間、2、3人を殴ったことは認めたが、その名前は覚えていないという。法廷は三上に対する罪状には疑義が残るとして、無罪とした。

林は罪状の一切を否認し、人違いを主張した。林自身も取調べを行なってはいたが、林という者が他にもいて、取調べを行なっていたのだという。したがって、第4の罪状など全く身に覚えがないと主張し、その結果、この罪状については無罪となった。

スパイ事件の捜査を指揮した三橋は、上層部から必要とあらば暴力を使ってもよいから速やかに事件を解決するよう命令を受けていたが、自分の与り知らないところでの拷問は禁じていたとも述べた。また、自分の命令で何回か暴行させたことはあったが、起訴状の拷問は身に覚えがないと主張した。

その他の被告たちは、容疑者に平手打ちをしたと認めた者から、命令により暴行、拷問を行ったと認めた者まで様々であったが、負傷したり死に至るような拷問はしていないという点では一致している。弁護人も拷問で死亡した者は無く、第2の罪状で死亡したとされる者たちは合法的な裁判を経て処刑されたものたちであり、勾留中に2名の容疑者が死亡したがこれは病死であったと主張した。判決ではそのうちの一人の名前が起訴状から削除された。

アンダマンでスパイ事件が発生し、捜査が行われたことは確かで、日本側もかなり神経を尖らせていたことは事実である。戦地におけるスパイとは、敵を引き入れる役割であり、見過ごせるわけがないのである。当然スパイ容疑者は厳しい取り調べを受けることになる。そして、スパイ罪には極刑が用意されるのが常である。それはどの時代でもどの国でも同じことである。それを承知で英軍はスパイを送り込んでくる。そして、現地人の中にはその危険を知ってか知らずか、協力するものが出てくる。

正式の手続きを踏んでスパイを処刑したら、戦後に殺人罪に問われたケースは他にもある。スパイを使った側もそこまでしないと、味方のスパイに示しがつかなくなるとの懸念もあったのだろう。スパイの世界は非情である。

コメント

タイトルとURLをコピーしました