第2回 英国裁判の背景
英国軍が行ったBC級戦犯裁判は、昭和21年1月から昭和23年12月にかけてシンガポール、クアラルンプール、タイピン、ラブアン、ラングーン、アロールスター、香港、ジョホールバル、ペナン、ジェッセルトン、メイミョウの地で行われた。その件数は308に上り、延べ967人が起訴された。そのうちの291人が死刑判決を受け、さらにそのうちの220人に刑が執行された。終身または有期の禁固刑の判決を受けた者は564人で、無罪または起訴取り消しとなった者は合わせて112人であった。
これらの数字によれば、英国の戦犯裁判によって裁かれた日本人のおよそ4人に1人が死刑になったということになる。過酷な裁判といえよう。このような批判に対しての英国側の言い分は次のようなものである。それは、当時の英国の裁判方針は禁固7年以上を見込める重大な戦争犯罪のみを裁くことであったので、必然的に重い判決の割合が高くなる、というものである。このことは、英国国立公文書館に保管される当時の資料からも裏付けられる。しかし、この一事によって英国の裁判が公正であったということには無理がある。実際の裁判の内容を見れば、検察による人物誤認、証人の偽証や誇張、裁判官からの妨害など、上げればきりがないほどの不公正が出てくるのである。また戦後、英軍により運営された収容所、特に戦犯既決囚の収容所で、英兵看守による暴行や掠奪が絶えなかったのも事実である。英国はこれを決して認めようとはしないが、これらの事実は日本軍将兵の日記、手記、遺書に克明に記されている。そして、これが戦後の日英和解の妨げの一因でもあった。英国捕虜とその家族も日本を憎んでいたが、日本人の刑死者とその家族も同じく英国を憎んだ。
ではなぜ、このような不公正な裁判が可能だったのか。そもそもBC級戦犯裁判とは軍事裁判である。権限を与えられた英国軍が戦争犯罪人を裁くのである。したがって裁判官も検察官も戦犯調査班も皆、英国軍人により構成された。当初は弁護人ですら英国軍人であった。この英国軍人たちは、日本軍によってシンガポールを始めとするアジア各地から追い出されたか捕虜になったものたちである。その屈辱を味わった彼らが日本軍に対する復讐心を持っていなかったと、果たして言い切れるのだろうか。
英国側が弁護人をつけてくれたのだから裁判の公正さは保たれていたと考える見方もあるが、それは戦犯捜査班と検察官そして裁判官が皆英国軍法務部の同僚であることの影響を理解していない。弁護人をつけようが、英軍当局の思い通りに裁判を運ぶことは十分可能なのである。
だからこそ、弁護人たちの奮闘ぶりは称賛に値する。その立場上、圧倒的に不利な状況にあるにもかかわらず、見事無罪を勝ち取ったケースもあるし、その力及ばざる時でも被告人の心の支えであり続けた。これは何も日本人の弁護人だけでなく、英国人の弁護人にもたいへん熱心な人がいたことも知っておいていただきたい。また、弁護人に限らず、公正さを持つ英国人によって命を救われたケースも実際にあった。逆に、仲間を売って自由を得た日本人や朝鮮人がいたのも事実である。BC級戦犯裁判では、敵も味方も皆、人間の本性が曝け出されたのである。
では、英国軍は一体如何なる法的根拠に基づいてこのような裁判を行うことができたのか。その法的根拠は英国王の勅命であった。昭和20年6月18日に発せられたSpecial Army Order Royal Warrant A.O. 81/1945である。これにより英国軍司令部は敗戦国軍人に対する戦犯裁判所を開く権利を与えられたのである。これは国際法とは全く関係のない法的根拠なのだが、これにより、戦時国際法を犯した敵国軍人が裁かれたのである。敗戦国の軍人が裁かれ、戦勝国の軍人が裁かれなかったのは、この法的根拠の為である。そもそも当時の国際法にはその違反者個人を裁く仕組みなど存在しなかったし、仮に国際法が裁くとしたら戦勝国と敗戦国の区別など付けられるはずなどない。ジュネーブ条約に、「ただし戦勝国は除く」と書かれていれば話は別だが。この戦犯裁判における戦勝国軍人と敗戦国軍人の差別は、時に珍妙なる事態を生み出すことがあった。それは、戦犯裁判で有罪判決を受けたある日本軍人が、実は英国籍を持っていることが後で判明したため、判決は法的根拠を失い、当然、取り消されたというものであった。その後この日本軍人は現地の裁判にかけられ、戦犯裁判で受けた判決よりもかなり軽い判決を受けたというのである。戦犯裁判なぞというものは斯くの如きもので、所詮その程度の代物でしかないと、まずは承知しておく必要があろう。
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