秘録 BC級戦犯裁判 5

靖國神社灯籠 秘録 BC級戦犯裁判
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 第5回 日高巳雄 法務少将 (三)

日高少将は公判前に宣誓供述書を書き、それを法廷に証拠として提出していた。英国公文書館の裁判資料の中には今もそれが残されている。今回はそれを読んでいただこうと思う。判別が難しい文字は□に置き換えてある。

誓約せる陳述書
私少将日高巳雄は誓約を為れたる後に次の事を陳述する。本陳述書は必ずしも之を為す必要はなきも自己の自発的意図に基き法廷に於て証拠として用いらる可きことある旨を予告せられたる後自発的に之を行ふ。1946年ワイルド大佐に依り行はれたる調書も自発的に行われ法廷に於て証拠として用いらる可き旨予告せられたることを証す。

I.
南方軍法務部と南方軍刑務所との関係に付て申上げます。法務部は兵器部、経理部、軍医部と同じく南方軍総司令部を構成する各部の中の一つの部で法務部業務を行い、刑務所は総司令官の直接指揮監督する部隊で刑務所業務を行うものでありまして法務部とは直接関係なき部隊であります。即ち法務部長は総司令官が刑務所長に対して行ふ指揮監督の中で行刑に関する事項に付其の諮問補佐に行する者でありまして、刑務所長を指揮監督する者でなく、刑務所長は総司令官の直接の指揮監督を受けて居るのであります。此等の点に付詳しく申上げると次の通であります。

1.法務部長の職責は戦時高等司令部勤務令及南方軍勤務令に規定せられて居るのであります。即ち総司令官の軍事司法に関する諮問に応ずる補佐の機関であると同時に法務部職員を指揮監督して法務部業務を掌理するのであります。刑務所長は刑務所職員を指揮監督して行刑業務其の他の刑務所業務を掌理し直接総司令官に対して責を負ふのでありのでありまして、其の指揮監督者は総司令官であります。

2.行刑業務も軍事司法の一部でありますから法務部長は総司令官の行ふ行刑業務の指揮監督に付総司令官を補佐しますが、其の他の刑務所業務、例へば人事、兵器、経理、衛星等の指揮監督に付ては総参謀長、兵器部長、経理部長、軍医部長らが夫れ夫れ総司令官を補佐するのであります。之を図を以て示すと次の如くであります。

3.刑務所長以下の職員は其の主要なる業務が行刑業務であるのと、刑務所職員は所長以下の職員の大部が法務部職員と同一種類の特種下士官(法務部特種下士官)でありますので、業務遂行の便宜上から刑務所長以下の職員が参謀部、副官部、経理部等の他の部に出入りするより法務部に出入りする機会が多いのは事実であります。然るに此の業務遂行の便宜上行はれて居る現象を見て法務部長が恰も刑務所長を指揮監督しておると断ずることは誤りでありまして、決して法務部長は刑務所長の指揮監督者ではなく、法務部長も総参謀長、兵器部長、経理部長、軍医部長等と同じく総司令官の補佐者に過ぎぬのであります。左様でありますから例へば刑務所内の経理上の事故に因り刑務所長以下の関係刑務所職員が処罰を受けても、経理部長が何等処罰を受けぬと同様に、収容者の脱走事故に因り刑務所長以下の関係刑務所職員が処罰を受けても、法務部長は何等処罰を受けることはないのであります。之れは経理部長、法務部長両者共総司令官の刑務所業務に対する指揮監督に付ての補佐者であって、其の業務の監督者でないからであります。

4.若し法務部長が刑務所の監督者であるならば、法務部長は刑務所長以下の刑務所職員に対する処罰の権を有するべきでありますが、刑務所長に対する処罰の権は総司令官之れを有するのであり、刑務所長以外の刑務所職員に対する処罰の権は刑務所長が有する所でありまして、法務部長には処罰の権は全然ないのであります。之に因っても法務部長が刑務所の監督者でないことが窺はれるのであります。

II.
私が南方軍刑務所を巡視した模様に付て申上げます。南方軍刑務所は私がシンガポールに昭和十八年六月着任しました時は既に開設せられて居りましたが、南方軍総司令部が同十九年五月マニラに移駐する少し前に廃止せられ、総司令部のマニラ到着後同地に開設せられたのでありますが、私は着任後間もなく一回刑務所を巡視し又廃止前一回巡視しましたが、其の間に二三回は巡視したと思って居ります。私が巡視した際刑務所の収容者に対する□□処遇は悪いとは思ひませんでした。夫れは当時刑務所職員は充実して居り又南方軍全般に食糧に付ても左程窮屈でなかったのと、何等斯様な事に付て非難の声を聞かなかったからだと存じます。私が巡視しました際俘虜の収容者が居たかどうかは記憶致しませんが、何日であったか覚えませんが、刑務所長が俘虜の収容者と日本軍人の収容者との間に処遇の差異は附して居ないが、日本軍人収容者に練兵をやらせる時俘虜の収容者には適当な運動をさせて居ると云ったことがあり、其の際私は絶対に其の他の点で処遇にを附けることは不可だと意見を述べたと思います。

III.
私がシンガポールに着任しました頃は既に南方軍刑務所は開設後日数が経って居りましたので、刑務所は殆ど整備されて居り又前項に申上げた通り食糧事情も急迫して居りませんでしたから其の改善の必要を認めませんでしたので、改善に付総司令官に意見を具申したこともありません。又刑務所長に意見を申し述べたこともなかったと思ひます。

IV.
第一項に申上げました通り法務部長は刑務所長の指揮監督者ではありませんが、総司令官の行ふ軍事司法の補佐者であるのと、刑務所業務の中で軍事司法に属する行刑業務が広汎であるのと、刑務所長が法務部将校であるの等で、刑務所長が人事に付副官部に、経理事項に付経理部に、衛生に付軍医部に参りますより度々法務部に参って居りました。而して法務部に参りました時法務部長が在室の時は法務部長に、法務部長が不在の時には法務部部員に対し刑務所収容者の総数、既未決間の区別数と、異状の有無に付申述は連絡を取るのが例でありました。而して法務部長は適時総司令官に其の状況を報告して居りました。又人事とか建築機材の交付とかに付副官部や経理部に申出でた後、斯様な事を申出でてあるから口添して呉れる様部長に依頼することもありました。然し斯ることは大抵法務部部員の頼んで居た様であります。刑務所の改善に付特別の申し出はなかったと思ひますが、水浴場が手狭な為建築材料の交付方を経理部に申出て居り、夫れに付いて骨折って呉れる様法務部部員に依頼したことがあります。其れは立派に出来上たと記憶して居ります。

V.
私がシンガポールに着任前のことは存じませんが、着任後総司令官が刑務所を巡視されたことはありません。私の出張中であったかと思ひますが飯村総参謀長が巡視されたことがあった様に聞いたと思いますが、はっきり致しません。参謀部第三課長及課員が確か一度巡視した様に思います。当時刑務所に対する外部の非難は聞きませんでしたから総司令部の高級将校は刑務所に対し大なる関心は持って居なかったと思います。

VI.
受刑者を俘虜の収容者の□□者に使用したことがあったと「ワイルド」大佐に伺ひましたが、私は刑務所長から左様なことは聞いたこともなく又他からも聞きませんから全然知りません。南方軍刑務所は職員も充実して居りましたから左様なことは南方軍刑務所の時にはなかったと信じて居ります。

VII.
刑務所に薬物の補給が全然なかったとワイルド大佐に伺ひましたが、私は刑務所長から左様なことを聞いたこともなく又他からも聞きませんから全然知りません。南方軍刑務所がシンガポールに所在して居ました頃は、南方軍の薬物は豊富ではありませんでしたが左程急迫していなかったと思いますので、薬物の補給が全然なかったとは信ぜられません。

日高巳雄
1946年8月

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