南京のナッチブル・ヒューゲッセン英国大使がウィリアム・ドナルドに書簡を送る前の1937年5月10日、同大使は本国に電報を送っている。その内容は、5月8日に行った蒋介石総統との会談内容の報告であった。この電報には興味深い点がいくつかある。まず、電報の書き出しを見ていただこう。
I had long conversation with General and Madame Chian Kai-Shek in Shanghai on May 8th in the course of which they asked me if I could tell them more about reports of Anglo-Japanese conversation in London.
私は、5月8日、蒋介石総統と夫人と長い会談を行った。その中で彼らは、ロンドンでの日英対話に関する報道についてもっと聞かせて欲しいと尋ねてきた。
なんと、国民党政権と英国政府を代表する二人の会談に、蒋介石夫人の宋美齢が加わっていたのである。これは何を意味するのか。電報の続きを見てみよう。
Generalissimo then asked me if I thought moment was now favourable for Dr. Kung to open discussions regarding Anglo-Chinese economic co-operation. I was unable to secure closer definition of his meaning as, when I enquired the nature of the proposals which Dr. Kung had in mind, Chiang Kai-shek replied that it would perhaps be better for concrete proposals to come from British side.
そして総統は、孔博士が英中経済協力に関する協議を始めるのに今が好ましい時だと思うか私に尋ねた。私が孔博士はどんな性質の提案を思い描いているのか聞いたところ、蒋介石は具体的な提案は英国側から出した方がよいだろうと返答したので、私は彼の真意に確信が持てなかった。
ここに出てくる孔博士とは孔祥熙のことである。孔は宋靄齢の夫であり、つまり、宋美齢、蒋介石の義兄にあたる。孔祥熙は若い時に米国に留学し、帰国後は実業家として名を馳せるようになった。その後、政界入りし、蒋介石の側近となった人物だ。実業界のパイプを活用して蒋介石を支えたのである。当時、中独合作を進める中華民国は孔祥熙をドイツに派遣し、ヒトラーと会談させ、関係強化を図っている。そして、同じ時期に蒋介石と孔祥熙は英国からも援助を引き出そうと接触していたことになる。この辺が中国人のしたたかさである。ドイツのライバル、英国に、ライバルのパートナーをこちらに引き入れてしまおうという心理が生まれてくるのも無理からぬことではある。蒋介石はそこを上手く突いて、強気に出た。
Chiang Kai-shek pressed me very strongly to telegraph to you the question whether the moment was now favourable for Dr. Kung to undertake such conversations. I therefore promised to do so.
蒋介石は私にとても強い調子で、孔博士が交渉を始めるのに今が好ましい時ではないかという件を本国に電報で送るよう求めてきた。私はそうすると約束した。
頼み事をする側の蒋介石がここまで強気なのは、常識的に考えると、少し腑に落ちないところではある。しかも相手はあの英国である。実は、この会談の通訳をしているのは、蒋介石夫人の宋美齢であった。したがって、蒋介石の言葉やその細かなニュアンスが正確に彼の意図したものであったかは、実のところ、彼女以外にはわからないのである。全ては宋美齢の匙加減で変わってくる。
そして、いよいよ会談の中で宋美齢が自身の考えを展開し始める。その詳しい内容は次回お伝えしたい。
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