幻の第二次日英同盟

Roots of the Trouble 日英関係
Roots of the Trouble

最近の英国のインド太平洋回帰の動きを、日英同盟の復活と見る向きもあるが、英国はもっと大きな視点でインド太平洋を見ていると思われる。とは言え、日本が西太平洋における重要なパートナーであることには変わりはない。日英の連携は歓迎すべきことである。この、日本人がノスタルジーを感じてやまない日英同盟は、実は、1928年に英国内で復活が検討されていた。もし、その時に同盟が復活していたならば、その後の歴史は大きく変わっていたであろう。

そもそも、なぜ、あの栄光の日英同盟が解消されてしまったのか。それは、大雑把に言えば、第一次大戦後の世界的な軍縮の流れと米国の隆盛の結果である。英国の外交官ヴァンシタート卿は著書『Roots of the Trouble(問題の根源)』の中で次のように述べている。

Having already reduced the Navy and abrogated the Japanese Alliance to please America – who thereby incurred some responsibility – we indulged in further disarmament to please ourselves, and made a virtue of parsimonious delusion.

(すでに海軍を縮小し、米国を喜ばせるために日本との同盟を廃棄していた我々は、われわれ自身を喜ばせるために更なる軍縮に耽り、しみったれた妄想のために躍起になっていた。)

これは、1921年から1922年にかけておこなれたワシントン会議とそれ以降の英国の姿を指している。アメリカで開催された史上初の軍縮会議の結果、日英同盟は解消され、代わりに日米英仏の四カ国条約が締結されたが、これは超大国にのし上がった米国の欲したことであった。つまり、第一次大戦で大きな傷を負った英国は、厭戦による軍縮と、超大国となった米国へのご機嫌取りのために日英同盟を廃棄するに至ったのである。

しかし、この状況を好ましく思わない英国の外交官や軍人たちも存在した。興味深いことに、最後まで日英関係の改善に熱意を持って努めた政治家、外交官、軍人として知られる、ハンキー卿、クレイギー駐日大使、ピゴット少将は、このワシントン会議の場にいたのである。ハンキー卿は、ピゴット少将の著作に送ったはしがきの中で次のように述べている。

The severance of the Anglo-Japanese Alliance, which was virtually the American precondition of the Conference, was so distasteful to the principal Delegates of both countries that the task of breaking the ice was remitted to Mr. Saburi, an old friend of mine at the Paris Peace Conference and now Secretary of the Japanese Delegation, and myself.

(日英同盟の解除、それは実質的に米国にとってワシントン会議の前提条件であったのだが、日英の主要な代表団員にはとても不愉快であったので、その氷を砕く任務が、私のパリ講和会議以来の古い友人である日本代表団の秘書官、佐分利氏に託されたのである。)

ピゴットはワシントン会議の後、東京の大使館へ駐在武官として派遣され、それから帰任した1928年、英軍事情報当局のアジア部門(MI2)の責任者となる。そして、ピゴットの働きかけもあり、英軍事作戦局は日英同盟復活の覚書を作成するまでに至ったのである。これには、1927年に上海で発生した暴動「上海クーデター」が影響しており、中国情勢の情報を日英で共有する部署を新たに立ち上げる案も含まれていた。

しかし、この第二次日英同盟案は幻のままに終わった。その原因には、満州事変と中国における日英の経済摩擦の深刻化があげられる。しかし、1928年の提案が1931年の満州事変で駄目になったというのは些か無理があるまいか。それよりは、1927年ジュネーブ海軍軍縮会議での英米の対立による決裂、そして1929年の英米予備交渉の進展と、それに伴う1930年ロンドン軍縮会議の開催のため、英国が再び日本を切って米国に寄っていったと見る方が自然ではないか。

このような海洋国家間での足並みの乱れが、第二次大戦に繋がっていったという見方も成り立つだろう。

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