1928年に英国内で日英同盟の復活が検討されたことは以前に述べた。この復活案が実現することはなかったが、実はその後も日本との連携は模索されていた。特に興味深いのは、日本が国際連盟を脱退したその翌年、つまり1934年に英政府内で「日英不可侵協定」を進める動きが出てきたことである。
これを主唱したのが保守党の大物政治家ネビル・チェンバレン財務相であった。チェンバレンは1934年3月14日の閣議で、極東における日本との連携が帝国の防衛態勢を整える上で有用であると説いたという。
実はこれに先立つ1933年10月、英国の帝国防衛委員会(Committee of Imperial Defence)が防衛要件小委員会(Defence Requirements Sub-committee)を設けていた。この小委員会を構成したのは3人の人物なのだが、その顔ぶれが興味深い。モーリス・ハンキー官房長官、ロバート・ヴァンシタート外務次官、ウォレン・フィッシャー財務次官だ。ハンキーは最後まで親日を貫き通した人物で、大英帝国を維持するために海軍力を強化する「帝国派」だ。ヴァンシタートは台頭し始めたドイツを念頭にヨーロッパでの防衛強化を目指していて、「欧州防衛派」と言える。フィッシャーはチェンバレン財務相の懐刀で、「財政派」だ。
興味深いことに、1933年から1934年にかけて、この「帝国派」「欧州防衛派」「財政派」の思惑が一致していたのである。当時の英国経済は世界恐慌の影響を受け、財政的に厳しい状況にあった。財政派としては金のかかる海軍を縮小したい。欧州防衛派は限られた資源を欧州防衛のために振りあてたい。しかし、帝国派は、ソ連の脅威を見据え、帝国全体の防衛力は維持したい。この三派の妥協として、日本との連携が再び持ち上がったのである。極東の対ソ防衛を日本に任せれば、その分、英海軍の縮小も可能というわけだ。
しかも、1935年には第二次ロンドン海軍軍縮会議が予定されており、英国としてはこれを成功に導き、軍縮の流れを確かなものにしたかったであろう。日本の動向がこの会議の成功の鍵でもあった。残念ながら、この会議で日本と英米の溝は確定的なものとなり、日英不可侵協定は幻となった。しかし、英軍部の中には帝国派が影響力を持ち続け、日英関係改善を模索しつづけたのである。英外務省、財務省が日本に見切りをつけて中国に向き始めていったのはこの頃であろう。それは同時に英国が米国と完全に歩調を合わせることでもあった。
地政学的な視点から世界を見て海洋国家同士の連携を目指していたのは、英国においては「帝国派」であったことは、心に留めておきたい。
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