「ささなみ」と日本の心

裳立山から琵琶湖を望む 文明論
裳立山から琵琶湖を望む

萬葉集に次のような歌がある。作者は柿本人麻呂である。

 近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌
玉たすき 畝傍うねびの山の 橿原かしはらの ひじりの御代ゆ れましし 神のことごと つがの木の いや継ぎ嗣ぎに あめの下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて 青丹よし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離あまざかる ひなにはあれど 石走いはばしる 淡海あふみの国の 楽浪ささなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇すめろきの 神のみことの 大宮は ここと聞けども 大殿おほとのは ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日はるひれる ももしきの 大宮処おほみやどころ 見れば悲しも

 反歌
楽浪ささなみの志賀の辛崎からさきさきくあれど大宮人の船待ちかねつ
楽浪の志賀の大曲おほわだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも

これは天智天皇が大和から志賀にお遷しになった都、大津京が帝のお亡くなりになった後に荒れ果ててしまったのを目にして、その悲しみを詠みあげた名歌中の名歌だ。柿本人麻呂はこの他にも、その悲しみの心を歌にしている。

ささなみや近江の宮は名のみして霞たなびき宮木もりなし
淡海あふみうみ夕波千鳥が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

この大津京の荒廃は壬申の乱の結果であるが、この上代日本最大の悲劇は上代最高の歌人の心に深く突き刺さっていた。そしてその悲しみはいつしか、和歌の歴史の一部となっていった。歌人が「ささなみ」という琵琶湖の静かな波を思い浮かべる時には必ず、この何とも言えぬ悲しき波音を聞くことになるのである。

この琵琶湖の「ささなみ」を眺めながら永い眠りについている歌人がいる。紀貫之である。実は、王朝の歌道の第一人者である貫之の墓が、比叡山の麓、裳立山にあることはあまり知られていない。そこからは美しい大津の湖畔が眺められる。この湖の景色を愛していた貫之がそこに墓を作ることを望んだのだという。しかし、これはただ単に景色が美しいという理由ではあるまい。歌人にとってそれが何を意味しているのか、述べるまでもあるまい。

時代は下り、藤原俊成が勅撰集である千載和歌集を編纂する際、平家の貴公子・平忠度の歌を一首、よみ人知らずとしてこれに入れたことは、日本人の心を打ってやまない物語として知られる。平家都落ちの折、忠度は一騎都に引き返し、五条にある俊成の邸の門を叩く。そして、自賛歌の巻物を俊成に託し、勅撰集を作る際には何卒この中からと言って立ち去るのである。かくして、俊成によって取られた歌が、次の歌である。

さざなみや志賀の都の荒れにしを昔ながらの山桜かな

忠度の境遇と重なって、美しくも悲しい歌である。この歌を詠んだ忠度も選んだ俊成もやはり、人麻呂、貫之と同じ心を持っていたことがわかる。歌道、つまり「しきしまの道」とはこういうものなのだ。

さて、さらに時代は下って、次のような歌を詠んだ方がいる。

さざなみのしがの山路のはるにまよひ ひとりながめし花さかりかな

この歌を詠んだのは保田與重郎である。この一事で、氏が「しきしまの道」の体現者であることがわかる。その歌碑は今も、近江神宮の境内から「ささなみ」を眺めている。

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