英外務省内の路線対立 日英不可侵協定を巡り

クライブ駐日英大使 日英関係
クライブ駐日英大使

英国内の「帝国派」と「財政派」からの強い支持もあり、俄に現実味を帯びてきた日英不可侵協定の締結であるが、肝心なマクドナルド首相と英外務省が消極的であった。ただ外務省内でも積極派はおり、一枚岩というわけでもなかった。

まず、英外務省側のキーマンの一人がクライブ駐日英大使であった。クライブは丁度、1934年、不可侵協定の話が持ち上がってきた頃に日本に赴任してきた。同年7月3日、クライブが日本の広田外相と会談をもった際、広田は英国との不可侵協定締結の用意が日本にはあると述べたのだが、なぜかクライブはその報告を船便で本国に送っている。クライブ報告がロンドンに到着したのは約1ヶ月後の8月7日であった。

この報告を受けて、英外務省も揺れた。サイモン外相はもともと不可侵協定に積極的であったので、積極的な対応をするようヴァンシタート次官に伝えた。しかし、ヴァンシタートは反対に回った。外務省極東部からの反対論が強く、それに同調したのである。この極東部を率いたオーデ極東部長の名前は覚えておいてよいだろう。

一方、英外務省内の積極派は誰か。後に駐日大使として赴任することになる、クレーギー参事官であった。クレーギーは最後まで日英関係改善を模索することになる。彼の名もまた覚えておくべきであろう。

クライブは本省に忠実な外交官といった印象だが、クレーギーは自分なりの信念で行動するといった印象だ。それぞれの評価は様々であるが、少なくとも日本にとってクレーギーが最良の英大使であったことは確かだ。この親日派をクライブの後任として英外務省がよく日本に派遣したものだ。この辺の英外務省内の動きは、もっと研究されるべきであろう。

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