生誕百年記念連載『父と私 倉前盛通伝』25

第25回 父のアルバイト

一人で大きな丸テーブルを背負って帰ってきた父に「それどうしたの?」と聞くと、大阪のおじさんが持っていけと言ってくれたということでした。電車に乗って運んだと聞いて、細い体の父がよく頑張ったなと思いました。テーブルは赤黒い模様の入った高級そうなものでした。大人になって似たようなテーブルを家具屋で見たことがあるのですが、やはりよい値段がついていました。大阪のおじさんは社長をしていたのでいいものを使っていたのでしょう。

父はそのテーブルを玄関のドアを開けてすぐの、つきあたりの和室に入れました。そして翌日の午後、女子学生一人を含む学生さん五人がそのテーブルに座り、勉強を始めたのです。そうです、父は塾を始めたのでした。

この頃の父はシナリオライターをやったり、塾をやったり、私立の女学院の教員をやったりと、とても忙しそうでした。これも大阪にいたから出来たのでしょう。富雄に比べたら池田は大阪府ですから、父母にとっては職場が近くなって便利になったと思います。また、家への人の出入りも多く、賑やかな生活だったと記憶しています。

昭和34年4月10日、当時の皇太子殿下の御成婚の日、馬車にお乗りになり道路をゆくパレードのお姿がテレビに映って、もう日本中が大騒ぎでした。父も母も私も悦子お姉さんも、美智子様は何てお綺麗な人なのだろうとテレビに夢中でした。確か、その日は学校も仕事もお休みだったと思います。その後しばらくして、母の叔母さんが息子さんと娘さんと三人で、東京から遊びに来て泊まっていたことがあります。その大叔母さんが弟をおんぶした写真が残っています。(つづく)

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