倉前盛通の紹介

倉前盛通は一般的には国際政治学者として知られている。地政学を紹介した『悪の論理』の著者として知られ、その国際情勢分析の手腕は高く評価されたが、もともとは金属の研究を専門とする科学者・技術者であった。

それがなぜ、国際情勢の分析を専門とするようになったのか。その切っ掛けは、シベリア開発に関する研究に携わったことと、情報の世界に足を踏み入れたことにある。倉前はソ連横断旅行を敢行し、見事、ソ連の国情をスパイしてきた。帰国後に提出された報告書は、西側の情報当局者たちを驚嘆させたという。これには倉前の科学者、技術者としての目が大きな役割を果たしたのであった。これが国際政治学者としての第一歩であった。

しかし、倉前は別の顔も持っていた。

それは脚本家としての顔である。意外にもこれはプロとしてであり、若い頃はテレビの放送作家として理科の番組を作ったりしていたこともあった。またある時、倉前が書いた戯曲を小林一三氏がいたく気に入り、その鶴の一声で、中村鴈治郎主演のお芝居にすることとなった。しかし、この話は小林氏の急逝によりお流れになってしまったという。とても残念ではあるが、もしこのお芝居が成功していたら、後の地政学者・倉前盛通はいなかったのかもしれない。

要するに、倉前は単なる学者先生ではなくプロのシナリオライターでもあり、物事を分析する際、様々なシナリオを立ててみることができたのである。この能力が国際情勢の分析にいかに役立ったか、倉前も著作の中で度々述べている。科学者・技術者としては、膨大なデータや情報に対して冷静沈着にこつこつと対処するが、それだけでは画期的な発見は生まれ難い。そこには創造的な何かが必要なのであろう。倉前は脚本家としての創造性をそこで発揮したのである。

ここに、他の学者たちにはできなかったことを倉前がやってのけた大きな理由がある。机の上で理屈をこねて考えるのではなく、膨大な情報の海に飛び込んで、自分の経験と直感で絵を描く。こうして倉前「情報学」は生まれたのである。

この国際政治学者、科学者、脚本家という倉前の多様な顔は、決して多重人格的な多面性ではなかった。倉前の思考は常にその多様な面をまとめ上げる一つの価値観で貫かれていたからだ。

その価値観を言葉で言い表そうとすると、「美学」という言葉しか見つからない。それは理屈、理論、原理などというものから、もっともかけ離れたものである。つまり、絶対的な「原理原則」よりも、時々で移ろう「人間の心」を大いに重んじていた。これは、ある哲学者が愛読書は何かと問われた際、「池波正太郎」と答えたことにも通ずるところがあろうか。やはり人間の営みには「色」や「香」が必要なのである。国際政治も学問も、所詮、人の営みに過ぎない。

倉前は若い頃から和歌を詠んでおり、その言葉の力、色香の力が身に染みてわかっていた。古今集の仮名序で紀貫之先生は「やまと歌は人の心をたねとしてよろづの言の葉とぞなれりける。(中略)力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」と述べられた。

これが、倉前の日本人としての心の拠り所であった。「歌」に「理屈」が不要なように、「日本人の生き方」に「賢しらの言挙げ」は不要であると。無駄なものを極限まで削ってゆき、最後に核心を得る。そして、そこに、色香を漂わせる。これは歌の基本であるが、人生にも通ずる。倉前は、膨大な情報から本物を見分ける感覚を、この日本の美学で磨いたのである。「美学」を知らぬものは「心」を知らず、「心」を知らぬものに「人」は語れぬ。政治も科学も所詮、人の為すことである。

倉前の思考はすべて文明論に行き着く。これが倉前の本当の顔である。