生誕百年記念連載『父と私 倉前盛通伝』9

延岡の海岸 父と私 倉前盛通伝
延岡の海岸

倉前麻須美 著 

第9回 叔父さんたち

二人の叔父さんがやって来ると家の中がにぎやかになり、私は単純に嬉しがっていました。二人の叔父さんたちの心配事を理解できる歳ではありませんでしたし、大人達も何も言いませんでしたので子供の私は何も知りませんでした。実際、母の実家のことも父の実家のことも、遠方で交流がほとんどなかったので、私は何も知りませんでした。

母の兄に当たる伯父さんも宮崎を出てからは故郷に帰らず、京都の方と結婚し京都で暮らし続けました。お医者さんだったこの伯父さんには、子供の私もお世話になったことがあります。それはまた別の機会にお話しましょう。

家に転がり込んできた二人の叔父さんのうち、上の叔父さんは宮崎に呼び戻されてしまいましたが、下の叔父さんは中学校を卒業したばかりで放り出された形になり、毎日泣き暮らしていて本当にかわいそうだったよと父が後年語ってくれました。その叔父さんの泣き顔を私は見たことがなく、いつもニコニコ遊んでくれていたので、その話を聞いてとてもびっくりした記憶があります。

その頃から父がよく口癖のように「おきまさんがいてくれたらな・・・」と言うので、「誰なの?」と聞くと、父を育ててくれたお母さんで、何でもできるし、困った人をよく助けていたよ、と父は言いました。父が若い頃、仙台の東北大学の研究所に勤めている時に、おきまさんは急に亡くなり、それを後で知らされた父のショックは相当のものだったそうです。下の叔父さんも三歳の時にお母さんを急に亡くしているので、そんな境遇の叔父を父も尚更不憫に思ったのでしょう。

父の慕っていたおきまさんは和裁が上手で、家には女の子達がたくさん習いに来ていたそうです。昭和の始め頃にミシンの使い方と洋裁もいち早く覚えて、父の子供服を全部作ってくれたそうです。確かに、父の子供時代の集合写真を見ると、他の子供はみんな着物なのに父一人だけが得意満面な顔をした洋服姿でした。おきまさんの写真を見せてもらうと、目のぱっちりした丸顔の優しそうな人で、以前窓の外にいたお婆さんとは全然違うと、子供心に安心したのを覚えています。そのおきまさんの弟さんであるおじさんが大阪で大きな鉄工所を経営していて、その一階は、お面をかぶって火花を散らすような作業をする工場、そして二階は地方から来た人達の寮になっていました。私が初めてそこへ連れて行かれた時は、その火花にとてもびっくりさせられました。そこで下の叔父さんは働くことになったのです。その後も、この叔父さんにはいろいろと可愛がってもらいました(つづく)

コメント