没後三十年企画『日本「匠」の伝統』20

智積院の紫陽花 日本「匠」の伝統
智積院の紫陽花

倉前盛通 著 

第20回 匠の精神と深層心理 (最終回)

自動車生産高や工作機械の生産と輸出、これらもアメリカ、西ドイツ、フランスなどに比べて日本が圧倒的に多いのです。特にコンピューターで制御する工作機械は桁外れに日本が優秀であります。これは伝統的に日本の匠の思想、匠の精神というのが、近代情報社会に最も適応しているということであります。

日本人は仕事をするときにこれを祭りだと思って、一つの宗教的なものと結びつけて仕事をしていますが、それを、敢えて、殊更めいた神学にはしていません。神学にはしておりませんけれども、無意識のうちに何となくそう思ってやっているのです。皆さんも、働く時に神様のことを意識しておられることはないと思います。しかし、一所懸命に働くわけです。何のためにあんなに一所懸命働くんだろうというくらい一所懸命に働く。しかし、心の奥底の、自分でも気が付かないもう一人の自分がいて、一所懸命神様のために働いている、その深層心理というものが、日本人には極めて強固なものとして存在するということでありましょう。

日本人の匠の精神というのは、そういう深層心理、つまり無意識です。この無意識こそが大事なのであります。表層の心理と無意識とを比べた場合、表面に浮かんでいる意識は言葉になり、文章になります。思い出すこともできます。しかし、無意識というのは言葉にならないのです。思い出すこともできない。何かの弾みで思い出すことはあるかもしれない、大抵忘れてしまっている。意識しないからこそ無意識なのです。

ところが、無意識のうちで覚えていることが沢山あるのです。意識の面で覚えている情報量と無意識の面で覚えている情報量とを比べた場合、後者の方が実は十万倍も多いのです。われわれは日常生活で行動する場合に理性とか知性で動いているなんて思い込んでいますが、それは思い上がりであります。理性とか知性というのは、ほんの少ししか働いていないのです。われわれの行動様式、思考様式というのは、実は無意識が持っている情報によって意思決定し、行動しているのです。

例えば道が二つに分かれていて、どっちかわからない、ま、こっちにしよう、と決めた場合は無意識で決めているわけです。間違った方向に行って遭難でもした場合は、その人は運が悪かったとか、ついてなかったとか言い、良い方向を選んだ場合は、運がいいとか、ついていたとか言います。しかし、実際は、無意識面の情報というのがあり、無意識というのは情報をたくさん覚えているわけです。知らなくても覚えているのです。

こっちがいいと判断した場合、情報をたくさん持っている人、つまり日頃からコツコツと無意識のうちの情報を蓄積しているような人は、こっちがいいなと正しい方向の判断をしているのです。それも膨大な、意識面の十万倍もあるような情報量で処理し、意思決定をして、正しい方向を選んでいます。

特に軍人などがそうであります。理屈で戰さはできないですから。戦さしている最中に理屈なんか言っても始まらないのです。理屈では考えられないようなことが起こるのが戦争であります。日本は先の大戦で負けたのですが、特に日本の海軍など、ミッドウェーであの通りツキを落としたのですが、ツキを落としてそれきり戻ってこなかったのです。なぜツキを落としたのか。海軍の指導部がツキを落とすような何かを持っていたのです。つまり、深層心理に弱いものを持っていたのです。表面の理性とか、学校の成績、試験の点数がいいとか、そんなことばかりを重んじ、深層心理の人間の一番大事な根本的なものを鍛えることを忘れていたのではないか、と思うのです。その点が東郷元帥なんかと全く違う所だと思います。そして、それが日本が敗北した大きな原因ではないかと思えるのです。アメリカ人の方が余程深層心理が強かったのかも知れません。

しかし、民族全体としてみると、日本人というのは非常に深層心理の強い民族である、ということ言えると私は思います。(完)

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