没後三十年企画『日本「匠」の伝統』6

日本「匠」の伝統

倉前盛通 著 

第6回 ものづくりと神様

また、技術がすべて祭祀に結び付くのが日本の特徴であります。色々な技術がありますが、鉄を作るにしても、稲を作るにしても、大工が家を建てるにしても、あるいは陶工が焼き物を焼くにしても、全てが祭りと結び付くわけです。

親戚の若い女性が焼き物をやっておりまして、ある美術系の大学で教えておりました。ある時そこへ遊びに行きましたら、轆轤を回しながら土をこねて茶碗とか色々な焼き物を作っていました。美術系の大学ですから、大学の窯があり、学生たちが一所懸命作ったものをその中に入れて焼くわけです。そして、火を入れる時に彼らがどうするかというと、窯に祀ってある祠にみんな集まって、丁寧にお辞儀をして、柏手を打つのです。芸術系の大学に行くような学生ですから、特段日本の神様に対する信仰心が篤いというわけでもありませんが、自分が瀬戸物を作ってみると神様に手を合わせずにはいられなくなるわけです。

一所懸命に土をこねて作ったものにいざ火を通してみると、とんでもない出来で失敗することもあれば、思いがけなず良いものに出来上がっていることもある。いっぺん火を通すということは、これはもう神様にお任せするしかないということなのです。窯の中の温度など色々なものを完全に管理、調節すればあるいは計画通りのものをができるかもしれません。そういうことが可能なものもありますが、それでは面白味がないのです。大量生産の茶碗などは、機械で作って機械的に焼いたものですから、安くて同じものがたくさんお店に並ぶわけです。しかし、芸術的価値はありませんから、みんな、それほど有難いと思いません。本当に芸術的に価値のあるような焼き物といったら、それはやはり、本当に管理できないような、のぼり窯で松の木をくべて、自分で薪を投げ込んで火を燃やすということぐらいやらないと出来ないと私は思います。

 戦後生まれの学生たちでも神妙に神様に柏手を打って、それからえき火を入れるわけですが、それが興味深く感じられたのであります。このような日本の焼き物師、陶工というのは、いい焼き物を「作った」とは言いません。いい焼き物が「生まれた」と言います。彼らは焼き物が「生まれる」と感じるのです。ここが日本とキリスト教社会などが非常に異なる所です。(つづく)

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