没後三十年追悼企画『日本「匠」の伝統』2

日本「匠」の伝統

倉前盛通 著 

第2回 名と実

武家政治が始まってからは、宮中の役人の名前というのは、有名無実化していきました。また一方で、幕府に仕える大名や侍たちにとって、幕府というのはあくまで「私」の政府でありまして、「公」の政府ではありませんでした。幕府が出した貞永式目も、これはあくまで「私」の法であって、大宝律令などの昔からある律令制度の法律に触れるものではなく、律令を変えるものではないと明言しております。ですから、侍そのものは身分という点では一介のボディガードに過ぎないのです。侍という言葉自身がボディガードという意味なのです。つまり、一私兵に過ぎないのであります。

 日本は、奈良時代に国民皆兵のような制度を作ったのですが、百姓の負担があまりに大きいということで、徐々に規模が縮小され、ついに桓武天皇が軍隊を廃止されました。国家の軍隊が存在しなかったのです。桓武天皇以来明治維新まで約一千年の間、日本は国家に軍隊が存在しない国でした。これは、日本を考える上で極めて重要なことであります。一千年の間、国家の軍隊が存在しなかった国などというのは世界に一つもありません。ただ日本だけであります。しかし、よく桓武天皇は国家の軍隊を廃止されたと思うのですが、国家の軍隊が存在しなくても治安の維持などに何の心配もなかったのでしょう。

それだけではなく、警視庁のようなものもなかったのです。確かに、弾正台というようなものはあったかもしれませんが、大したことはやっていなかったわけです。しかし、平安中期頃になると、さすがに治安が乱れてきて泥棒などが横行するので、やむを得ず検非違使というものを作りましたが、検非違使というのは律令制度の中にはない役人です。ですから令外の官といっていました。ちょうど今の自衛隊のようなもので、社会党などがよく、自衛隊は憲法違反の合法などということを言っておりますが、あれと同じで、警視総監は令外の官だったわけです。

 このようにやっとのことで警視総監みたいなものは作ったのですが、それでも嵯峨天皇が死刑を廃止されて、これも明治まで死刑がなかった訳です。国家としての公式な死刑がないのということです。もちろん侍の間では処刑はありましたが、これはあくまで私刑であり、国家が公式に死刑を行ったということではありません。

 その後、武家の政治になると、侍たちは有名無実となった宮廷の役人の名前を名誉称号として頂くことをたいへんな喜びとしました。ですから、浅野のお殿様は科学技術庁長官という名前を頂戴して大いに喜んだし、吉良上野介は群馬県副知事という名誉称号を頂いていたわけです。話は逸れますが、上野介というのはあまり運がよくありませんね。吉良上野介はあのようなに殺されたわけですし、幕末の小栗上野介も無惨な最期でした。(つづく)

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