没後三十年追悼企画『日本「匠」の伝統』1

日本「匠」の伝統

倉前盛通 著 

これは昭和六十一年に行われた第6回アジア研究所公開講座「日本文化を考える」の第6回講演の内容を編集し直したものである。

第1回 日本の「匠」

 現在は国際的な問題をやっておりますが、私は本来エンジニアです。その関係もあり、日本の匠の伝統、日本の科学技術の伝統について考えてみたいと思います。

 科学技術から離れてもうかなり時間が経ちますが、若い時に叩き込まれたことはそう抜けるものではありません。それに、アジア経済研究所でソ連の研究、特にシベリア開発の研究を長い間やっておりました。これはほとんど地下資源の開発とか、鉄道の建設とか、例えば、バーム鉄道の建設、チュメニ油田の開発、そのような問題をやってまいりました。ですから科学技術の知識がないと理解できないことが多い訳です。

 ソ連経済などを専攻して、若干ソ連に対して心理的に傾斜している人には、ソ連の発表を鵜呑みにして、それを持ち回る人がよくいます。最近では、ソ連経済がうまくいっていないことはもう常識になりましたから迷う人は少ないようですが、今から二十五年前だと、大いなるシベリア開発などといっていまして、すっかり取りつかれている人がたくさんいました。「シベリア開発はうまくいくはずがない」と私は盛んに言ったものですが、「この保守反動やろう」という顔をされたものです。今になってみると、シベリア開発が見事な失敗であったことは極めて明確であります。科学技術の知識なしには今日の国際関係も理解ができない、そういう時代になったと思っています。

 本日お話することは、日本の匠の伝統についてであります。匠というのは、古い言葉でありまして、物事を巧みにこなすとか、上手であるという意味があるわけです。これを名詞に使うこともありまして、大工の「工」という字をあてて「たくみ」と読むこともあります。これは古い和行書などに出てくるもので、細工師とか職人、そういう者を「たくみ」といっておりました。

 それから「匠」の上に「内」という字を書いて、「内匠」、これも「たくみ」と読みますが、宮廷に仕える「匠」でありまして、その役所は「内匠寮」と書いて「たくみのつかさ」とか「たくみりょう」といいました。これは大宝律令によるもので、平安時代からは、宮中の器物や公書を司どる中務省に属して宮中におけるいろいろな道具を修理したり、あるいは建物等を修理する、つまり営繕の仕事をしていたのでしょう。

 明治時代には、宮内省の中に内匠寮がありましたが、戦後、宮内庁になってからは、その管理部の中に一部が残っていると考えてよいでしょう。内匠頭(たくみのかみ)というのは内匠寮の長官のことであります。内匠頭で思い出すのは、討ち入りで有名な赤穂浪士の殿様、浅野内匠頭です。内匠頭とは、今でいえば科学技術庁長官のようなものですが、赤穂の殿様が実際に科学技術庁長官になっていたわけではなく、単に名誉称号であったわけです。(つづく)

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