没後三十年企画『日本「匠」の伝統』14

落柿舎去来祭 日本「匠」の伝統
落柿舎去来祭

倉前盛通 著 

第14回 技と祭祀

それから、職人も神を祀ります。大工や、木工職人、金属にいろいろ細工する金工、鋳物職人、あるいは刀鍛冶などです。刀鍛冶などは精進潔斎して、周りに注連縄を張って、烏帽子を被って刀を打つわけです。これは人を殺す武器を作っているのではなく、神に供えるものを作っているのです。だから精進潔斎して注連縄を張った中で刀を鍛えるわけです。これも一種の祭りであります。

そういう形で作られたのが日本刀であり、単なる殺人の道具として大量生産されたものとは全く意味が違ってくるでしょう。だから、日本刀というのはたいへんに美しい。芸術的に非常に美しいというのも、神に供えるということが根底にあるからこそ、美しいものに仕上がるのだと思います。

陶工も、これはすでに申しましたが、窯に火を入れる時は、やはり火の神様に祈るわけです。大抵の焼き物を焼くところは火の神様を祀ってあります。漆職人なども同様です。

その他、共同祭祀の一環として、相撲や歌舞伎、能などがあります。相撲や歌舞伎があると幟が立ちますが、その幟の先端には昔は榊をつけ、神の依代としていました。神が天から降りてくるわけです。村の鎮守のお祭りの時にも、柱を立てて、柱の先端に榊をつけます。日本では神様というのは、天から高い山や木の上に降りてくるのです。ですから、相撲、歌舞伎、能といったものに幟が立つということは、そこに神が天から降臨してくる訳ですから、実は、神を招いて、その前で取り組みや演技をしているということなのです。それを民衆も一緒に見せてもらった、というのが芸能の始まりです。

もともと能楽というのは、春日神社の猿楽から発達したものでありますが、能の舞台をみると、後ろに松の木が描かれてある。その松の木というのはご存知のように、春日神社の神木を意味するのであって、春日神社の神木の前で能を舞っているわけです。つまり、猿楽をやっているわけです。神木というのは神の依代であって、神様が天から降りてきてそこに座るということです。つまり神様が寄り掛かる依代として、その神木があるわけです。神木そのものを神として拝んでいるわけではありません。

岩が神の依代になっている所もあります。それを磐座と言います。西洋人には、日本人は木や石を神様と思って拝んでいる、なんて悪口を言う人もいますが、それは彼らが日本人の神を全く理解していない、誤解から生じたことであります。例えば、天皇陛下がお座りになる玉座でしたら、汚れないように大事にするでしょう。同じように、神様が降りてくる神木や磐座ならば、これは汚れないように大事にするのです。大事にするのを見て、これは岩や木を神様と思っていると悪口を言うのは、誤解からです。

誤解されている人がいたら、教えて差し上げましょう。幟が立っている時は、これはもう神事であります。歌舞伎をやっている人も見ている人も、もうそのようなことは忘れているでしょう。能の舞台に松の木が描かれているのは、松の木に神様が宿っているのですよ、と。その前で演じているのですよ、それを一般庶民も見せてもらっているのですよ、と。

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