没後三十年企画『日本「匠」の伝統』19

大原の田んぼ 日本「匠」の伝統
大原の田んぼ

倉前盛通 著 

第19回 稲作と畑作

何でも道として理想を高く持つ日本人の特性はどこからきたのでしょうか。これは稲作からきているのではないかと思われます。日本で稲を作るのには自発的意志を必要とするからです。

東南アジアのように年に三回も米がとれると、怠けるようになるようです。いつでも稲を植えられますから、せっせと働く必要がない訳です。一方、日本では春夏秋冬がきちんと巡ってきますから、時期を逃したら米ができなくなってしまう。つまり、時間に追われるのです。そこでは、綿密さと勤勉さと自発的意欲がないと困るわけです。それ次第で収穫量に大きな違いが出てしまうのです。つまり、篤農家が頑張ると、収穫は確実に増えるし、いい加減な農業をすると収穫はかなり減ってしまうのです。米作りにはその差がはっきりと出るのであります。作っている人が真面目にやっているかが収穫量を決めるのです。

ところが、ヨーロッパの粗法農業というのは、収穫、カロリーあたりの投入労力は少なくて済む訳です。粗法ですから、自蒔きで簡単に済む。田植えのようなことはする必要がないのです。しかし、ヘクタールあたりの収穫などは米と比べてはるかに少ないのです。しかも麦というのは冬作物ですから、太陽の日射が少なく、カロリーも少ない。カロリーが少ないので結局は肉を食べないとカロリーが足らない、ということになります。

ですから、米を作っている人たちと、麦を作っている人たちでは、農業のやり方が大いに違ってくるし、ものの考え方も違ってくると思われます。田んぼというのは、毎年同じ所を使えます。水が入ってくるので、水が肥料を運び込んでくる訳です。水田が連続して使える一方で、麦の畑などは連続して使うことができません。ですから、三年に一回、同じ所を使うようにし、今年作ったら来年は作らないで他のところで作るのです。そこには牛や馬などを放しておいて、三年おきくらいで元のところに帰ってきて農業をする、というようなことになります。そういうサイクルで農業をしなければ、土地の地力が落ちる訳です。これは、水田でないからです。日本は水田ですから、同じところで何回でも米が取れる。しかも努力さえすればたくさんとれる。

そうすると、努力すれば報われるのだという発想が出てくるのです。つまり、稲作というのは細やかさが大事で、その細やかさが鉄器、つまり鋤や鍬、鎌などを作ることに及んだのです。そして、それが大工道具の鑿や鉋を作り、木工技術やその他いろいろなものに及んだと考えられるのです。日本刀もその中から出てきたものであります。

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