没後三十年企画『日本「匠」の伝統』15

大原 日本「匠」の伝統
大原

倉前盛通 著 

第15回 定年と日本人

このように、働くことが祭りの一環、つまり祭りにお仕えすることであるという発想は、後に仏教や儒教とも結びついていきます。例えば、禅僧の鈴木正三や石門心学で有名な石田梅岩のような人が出てきて、働くことは仏業であり仏様にお仕えすることであるとか、念仏を一回唱える暇に一鍬ふるって土を耕せ、一鍬ふるって土地を耕せば、それが念仏を一回唱えたことと同じになるのだと説いたのです。労働ということを非常に尊重して、働くことは良いことなのだ、働くことで仏様の御心にかなうのだということを盛んに言ったのです。これは元をただせば、働くことは神様の祭りに仕えることであるというのが基本にあったからこそ、抵抗なく受け入れられたのであります。

しかし、西洋では働くことは罰であります。アダムとイブの時代に神様の禁忌を破ってリンゴの実を食べてしまった罰として、額に汗して働けと言われたとあります。働くことは神様から与えられた罰なのです。ですから、定年が来て、もう年金で暮らせていけるとなると、やれやれこれで神様の罰から逃れることができた、これで優雅に暮らせる、とたいへん喜ぶわけです。労働というのは、動物がすることが、あるいは動物に近い奴隷がすることであって、上等な人間は労働はしないんだ、というのがキリスト教の社会にはあるのです。また、イスラムの社会でも同様です。

ですから、働くことはいいことだという日本の考え方が、世界中で通用すると思っていたら大間違いなのです。世界では、働くのは動物、奴隷、下層階級のすることで、上等な人間は働かずに優雅に暮らすものだという発想があるのです。このような発想が圧倒的に世界の大部分を占めているのだということを忘れてしまうと、困ることが出てくるわけです。

後進国というのは、案外、そういう発想を持った人がたくさんいる社会であり、働くことは奴隷のすること、動物のすることだという考え方で、人々が働かないのです。飢え死にしない程度に食えればいいという考えになってしまうのです。

一方、日本では、定年だからもう仕事をしなくてもいいよ、と言われることは、お前さんもう歳だから共同体の祭りには出なくていいよ、と言われるのと同じなのです。今まで一緒に神輿を担いでわっしょい、わっしょいとやっていたのに、じいさんもう歳だから担がんでいいよ、と言われたらずいぶんがっかりするだろうと思うのです。結局、日本では、定年というのはそのように受け取られるわけです。働くということは、神に仕えること、祭りに参加することであるというのが日本の労働観であり、匠の伝統でもあったわけです。

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