秘録 BC級戦犯裁判
第37回 ポートブレア編(16)
合田豊海軍兵曹長もポートブレアでの現地住民に対する暴行致死事件で絞首刑となった一人である。この事件で死亡したとされるのは、デュラン・カーンという労務者で、合田兵曹長は労務者の監督をしていた。
検察によると、1943年6月か7月のある日、合田兵曹長はある労務者から所持金が盗まれたとの報告を受けた。合田兵曹長は、労務者のリーダーであったスーラン・カーンを訪ね、事件について伝えた。そこで、デュラン・カーン、ミーラー・クティ、べフラ、そして名前の分かっていないマドラス人が犯人だと伝えた。その後、その4人は合田兵曹長の所に連行され、合田兵曹長自身が取り調べを行なった。その際、2名の日本兵の助けを借りて、犯人たちを木に縛り付け、木の棒で頭部、背中、尻を殴りつけた。合田兵曹長の暴行の結果、デュラン・カーンはその場で死亡した。以上が検察が述べた起訴内容である。
検察証人として、デュラン・カーンとは兄弟の間柄であるスーラン・カーンが出廷し、証言した。それによると、デュラン・カーンを暴行したのは合田兵曹長で、他の3人の労務者は別の日本人2人に暴行されたという。
合田兵曹長によれば、取り調べを行なったのは彼の上官の宇野准尉であったという。その上官の命令で合田兵曹長は一人の労務者を2、3度殴ったが、それは名前を知らない労務者で、デュラン・カーンではなかったという。また、上官の取り調べの後にデュラン・カーンは死亡したと聞いたという。弁護人によると、合田兵曹長が殴ったとする労務者はその後も建設工事現場で働いていたという。
デュラン・カーンの健康状態はもともと良くなかったという。ポートブレアではマラリアなどの病気が多く見られ、検察証人アッバ・カーンもデュラン・カーンの健康状態が悪かったことを証言している。つまり、健康不良の所に暴行を受け、容態が悪化したことがデュラン・カーンの死因と考えるのが妥当である。この辺の詳しい死因の特定は、戦犯裁判ではほとんど為されず、ほぼ検察証人の証言を採用するだけであることは、以前の裁判と同様である。
結局、裁判官は検察証人スーラン・カーンの言い分を全面的に採用し、被告に絞首刑を言い渡すのだが、この証人の証言にはいくつかおかしな点がある。弁護人がそれらを指摘しても絞首刑の判決に変わりはなかった。実に、短い裁判であった。
スーラン・カーンの証言のおかしな点をあげてみたい。
スーラン・カーンは、「その日は雨だったので、草を刈っていた」と証言したが、合田兵曹長と弁護側証人は共に、「その日は晴れた日で、建設工事を行なっていた」という証言した。どちらが正しいのか。弁護人の主張によれば、現地住民は雨の日に働かないのが習慣なのだという。それはマラリアなどの病気を予防するためでもあり、雨の日の草刈りなど常識では考えられないと指摘している。
また、スーラン・カーンの裁判前の供述書と裁判での証言には食い違いが見られる。裁判前の供述書では、合田兵曹長と他の2名の日本人が交代しながらデュラン・カーンと他の3名の労務者を殴ったとしており、これは、合田兵曹長一人がデュラン・カーンを殴り殺したという自身の証言と一致しない。
また、どれだけ離れた距離から事件を目撃したかについて、裁判では30ペース(歩)と証言したのに対し、裁判前の供述では30ヤードとなっていることも不審な点である。
この様に、検察証人の証言には怪しい点が多く、弁護人はこの様な証言はでっち上げだと主張したほどであった。
判決後に弁護人が提出した嘆願書には、合田兵曹長は現地住民に対して親切で名前をよく知られた存在であったこと、そしてそれが仇となり、兄弟を亡くし日本人を恨んでいるスーラン・カーンによって犯人に仕立て上げられたことが述べられている。
「名前のよく知られた者の不幸」は戦犯裁判にはつきものであった。
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