第22回 ポートブレア編 (1)
ポートブレアとは、インド洋に浮かぶアンダマン・ニコバル諸島最大の都市である。インドとビルマの間に位置する同諸島における、イギリス植民地時代からの行政の中心である。ちなみに、ポートブレアの名は、イギリス東インド会社のアーチボルト・ブレアの名に因んだものであるという。
第二次大戦中、アンダマン・ニコバル諸島は日本軍に占領されたが、それ以上にイギリスが看過できないことがあった。それは、日本から引き渡されるかたちでこの諸島が自由インド仮政府の統治下に置かれたことである。イギリスからの独立を目指すインド人たちにより設立された仮政府が、正式に領土を持った事実はインド独立運動にどれだけ弾みをつけたか知れない。
日本の敗戦により再びイギリスに占領された同諸島で、まずイギリスが行うべきことは、日本占領・自由インド仮政府統治時代の全否定であることは言うまでもない。そうしなければ、インド独立運動の火は消し止めることはできまい。
こうして、1946年4月から6月の間という早い段階で、イギリスはアンダマン・ニコバル関係の戦犯裁判を集中的に行い、その結果、厳しい判決が続いた。その中でもポートブレアで発生したとされる事件の裁判では、誰もが首を傾げるような判決が目立った。ポートブレア関連の裁判では、死刑判決が言い渡されたものが15件にも上る。そのうちの一件の2名の被告は裁判後に減刑されたが、この厳しさは些か常軌を逸するものがある。
しかも、これらの事件の内容はどれもよく似ており、現地住民に対する虐待致死が罪に問われたものがほとんどである。当然、検察側の証人として現地住民が証言するわけだが、それらのほとんどが信頼に足るものではないのである。しかし、他に証拠がなくとも、否、ないからこそ、判事たちはそれらの証言のみを証拠として採用し、死刑を宣告し得た。ポートブレア関連の裁判ではこのようなことが繰り返されたわけだ。
現地住民に温情をもって接していた者さえ死刑に処せられた、ポートブレア関連の裁判とは一体どんなものであったか、これから詳しく見ていきたい。
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