第9回 ペナン裁判 (二)
ペナン裁判は、日本軍がペナンに進駐してから発生したとされる様々な事件の寄せ集めを、あたかも一つの事件かのように扱い、階級や任務、勤務時期の異なる35名を一斉に起訴したものである。それらの事件の中で、最も大きく扱われたのが所謂「ペナン島粛清事件」である。この事件は、現地華僑の抗日共産ゲリラを日本軍が検挙し、取り調べ中に拷問を加え、その結果1000名が死亡したとされる事件である。もちろん、これには多くの偽証と誇張が含まれているが、そもそも、この事件におけるペナン憲兵隊の責任はかなり限定的なものなのである。なぜなら、この「取締り」を主導したのは、マラヤ北部に駐屯する第5師団の警備隊であった。検挙と取り調べは憲兵隊が行うものであるという先入観は、ここでは捨てなくてはならない。
当時、日本軍による占領統治は、3つの組織でなりたっていた。行政を担う軍政部、敵からの攻撃に備える警備隊、現地の治安並びに軍内の規律を維持する憲兵隊。これらは日本軍ということで一括りにされがちであるが、現在の官僚組織と同じく縦割りの組織で、お互い協力はするが別個の指揮系統を持っていた。
さて、共産ゲリラに対する一斉検挙は昭和17年の前半に3回行われた。最初の検挙に関しては、東川少佐が憲兵分隊長として着任する前で、前任の上野中尉がこれを指揮して行ったものであり、東川少佐には関係がない。2度目の一斉検挙は昭和17年4月初旬に行われた。この時、東川少佐はペナン憲兵分隊を指揮していたが、着任したばかりでまだ職務に対して十分な準備が整っていたとは言えなかった。そして、そもそも、この2度目の一斉検挙を主導したのは憲兵隊ではなく、警備隊であった。なぜ警備隊の主導であったかは、東川少佐がペナン憲兵分隊の指揮を引き継いだ当時の状況を見なくてはわかるまい。それはおおよそ次のようなものであった。
東川少佐の着任以前の昭和17年2月に、現地では共産ゲリラによる爆破事件が発生し、これを受けて警備隊が共産ゲリラに対する徹底的な捜査を開始していたのである。その捜査の結果明らかになったことは、共産ゲリラによる日本人文民やペナンの有力者の監禁や殺害、そして政府施設の破壊等の計画であった。これを阻止すべく、第5師団は大規模な一斉検挙を行うことを決定した。その準備の最中である昭和17年3月中旬に東川少佐はペナンに着任したのであった。
憲兵隊の指揮官が交代しようが、この一斉検挙が警備隊の作戦であることに変わりはない。そんな中、東川ペナン憲兵分隊長はスンゲイパタニ警備隊司令官の高橋少佐から、この一斉検挙への支援を要請された。東川少佐はまず、シンガポールにいる上官の大石中佐に指示を仰いだ。その結果、大石中佐から警備隊支援の命令が下った。かくして東川少佐は応援部隊を派遣し、鎌田准尉を警備隊との連絡役に指名した。タイピン憲兵分隊からも応援部隊が派遣され、同様に警備隊の指揮下に入った。
当然、検挙後の容疑者取り調べについても、主導権は警備隊にあった。したがって、この一斉検挙に関する責任は憲兵隊ではなく警備隊にある。3度目の一斉検挙もこれと同様で、高橋少佐率いる警備隊が主導して行った。この時の取り調べには海軍も加わったとバグー・シンという者が証言している。
断っておくが、ここで述べたいのは、警備隊が悪いということではない。現実にゲリラ活動が行われており、進行中の計画を察知したからにはこれを阻止すること違法性はない。つまり正当な軍事行為にあたる。ここではっきりさせておきたいのは、その作戦の責任が警備隊にあったのか、それとも憲兵隊にあったのかということである。検察が全責任を憲兵隊に負わせ、憲兵隊所属の35人を起訴したのであるから、この点は明らかにせねばなるまい。
しかし、裁判で弁護人がこの責任の所在を明らかにしようと高橋少佐等を証人として訊問することを要請したところ、裁判長に却下された。仕方なく弁護人は、検察証人からも憲兵隊以外の日本兵がいたという証言が得られていることにより、憲兵隊は一斉検挙の責任を免れると主張する他なかった。
憲兵隊は警備隊とは異なり、現地に留まり治安維持に努めるのが任務であり、現地人は彼らの顔と名前をよく覚えていた。そのため、名前も顔も覚えていない警備隊の者より憲兵隊に責任を負わせた方が裁判がうまく運ぶと英国側は考えたのだろう。ペナン憲兵隊の悲運がここにある。
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