秘録 BC級戦犯裁判 11

第11回 ペナン裁判 (四)

これから被告たちについて少し詳しく述べてみたい。ペナン憲兵分隊全体に網がかけられたこの裁判において、弁護人は全体としての調和を図りながら一人ひとりの被告を弁護しなくてはならなかった。弁護人は35人の被告人を4つのグループに分けた。

(A)東川少佐と寺田大尉。ペナン憲兵分隊を指揮した2人である。

(B)鎌田、村、涌井、小川、村上、清水、今井、横見、村上(曹長)、和斯、佐伯、東西被告の12名。彼らは共産ゲリラに対する取り調べを行ったとされる。

(C)田端、羽賀、池田、和木、長田、渡邊、加藤、伊藤、橋本、江草、西川、及川、山下、上迫、三浦、岸田、与田被告の17名。彼らは共産ゲリラに対する取り調べには一切関与しなかったとされる。

(D)3名の台湾人通訳。彼らは単に通訳として勤めていたに過ぎない。

ペナン憲兵分隊を東川少佐が指揮した期間は昭和17年3月から18年1月までである。一方、寺田大尉は18年3月から降伏までの期間であった。二人とも、被疑者の取り調べの際には違法行為つまり暴力をふるうことはしてはならないと指示を出していた。それにも拘わらず被疑者への虐待が、仮にあったとして、それを理由にこの二人を虐待致死の罪で裁くことができるだろうか。弁護人はこのように主張した。実際、寺田大尉は虐待を見つけたときには止めにはいっている。このことは検察証人の証言からも明らかにされた。これにとどまらず、寺田大尉の人柄が良かったことは様々な証言からも裏付けられた。ペナンの住民のためにいろいろ骨を折っていたことも知られている。

寺田大尉はこの裁判の経緯を手記に記している。それが可能だった理由は、彼が死刑判決後に減刑され、その命が助かったことにある。寺田大尉に対して有利な証言や証拠がでてきたため、裁判長はそれを酌んで銃殺刑の判決を言い渡した。軍法会議というものが絶えて久しい今の日本では、銃殺刑のほうが惨酷であると感じる人が多いだろうが、軍人にとってはこの方が名誉ある死であるということは理解しておいていただきたい。だが、寺田大尉に対する銃殺刑は承認されず、確認官コックス少将により減刑されたのである。そのおかげで、寺田大尉は、同僚たちがどのような様子であったか書き記すことを得た。その手記は『われ死ぬべしや』に収められている。この手記の著者の名前には偽名が使われているが、寺田大尉の書いたものであることは明らかである。そこには興味深いエピソードがいろいろと綴られている。すべてをここで紹介するわけにはいかないが、いくつか紹介しよう。

「拷問だけで死刑にはなるまい。之が私の勘定だった」

寺田大尉は裁判を振り返ってこのようなことを率直に述べているが、これによってわかることは、憲兵による取り調べで拷問が行われたことは否定できないが、それによって被疑者を死に至らしめたことなどなかった、ということである。そして、その事実があるからこそ、被告たちは想像以上に過酷な裁判に苦しむことになったのである。まだ戦犯裁判の怖さを実感できないでいた寺田大尉に対し、常盤弁護士は次のようなことを述べたという。

「スミス中佐は刑が重いのでシンガポールで有名です。彼を此所(ペナン)に残すからには其の意図が想像できます。恐らくペナン憲兵を殆んど殺す心算でせう。責任者の貴方が生きようと思っては困ります」

この言葉を、裁判を通して寺田大尉は正に実感していくことになる。そして彼も腹をくくり、指揮官としての責任を果たさむと心に決める。自らは死しても部下は救わむとしたのである。一例を挙げれば、有罪の評決が言い渡されて後、まだ如何なる刑か決する前、陳述の機会が与えられた寺田大尉は、一週間文章を練に練って次のようなことを述べた。

「私は多数の証人が述べた事を全部信ずる事が出来ません。然し殴ったと云ふやうな事はあった様に思ひます。それは全くの私の不徳の致すことで御座います。就いては私は如何様な御処分を得ましても構ひませんが、私の部下をどうか助けてやって下さい。特に伍長以下の若い者や今は連合國の住民である台湾人通訳三名を是非助けて戴きたい。伍長と申しましても、之等は終戦後特別の計ひで任官した者であります。
 由来日本の陸軍には、私的制裁が行はれて居りました。之は志気を鼓舞する為に必要であると、考へられて居りました。こうした環境に育ちました部下の者が、之を誤って原住民の上に加へたものであります。故にその罪の一半は日本陸軍の過去の教育にあります。今や日本の陸軍は亡びました。この悪弊は永久に一掃されるでありませう。若し誤って殴った者が居れば、之等も亦充分に悔悟して居ることと思ひます。どうか御寛大にお願ひします。」

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