秘録 BC級戦犯裁判 12

第12回 ペナン裁判 (五)

鎌田准尉は東川少佐と同じ時期にペナンに赴任してきた。共産ゲリラ一斉検挙の際は、警備隊と憲兵隊との間で連絡役を務めたが、その時の取り調べは警備隊が行ったので、鎌田准尉に責任はない。もちろん刑務所内での被疑者の扱いにも責任はない。憲兵隊の中では部下の監督が主な任務であった鎌田准尉は、その任期の間で二、三度自ら取り調べを行ったことを認め、被疑者を殴ったことがあったことも認めた。しかし、それは拷問などではなく、拷問を指示したこともなかったという。

この鎌田准尉に対して検察証人となったかつての使用人ジット・シンは、スカリーという被疑者が死亡したが、それは鎌田准尉が取り調べた後であったと証言した。これが鎌田准尉にかけられた具体的な容疑である。しかし、スカリーが死亡したのは彼の逮捕から1年後のことであったことに注意しなくてはなるまい。彼の死は虐待によるものではなく、刑務所の環境の悪さからくる衰弱死であると考えるのが妥当である。鎌田准尉はスカリーを殴ったことを認めているが、それだけでその死亡の責任を彼に負わせることはできない。しかし、彼に下された判決は絞首刑であった。検察証人の証言が決め手となったのである。このような元使用人の検察証人について、寺田大尉は手記で次のように述べている。

「一年振りに彼等を証人台に見て、心の奥底に何か懐かしさが湧いて来たのであるが、彼等の口から出た言葉は誇張せられ、或は捏造せられたもので、吾々を獄門へと導く軛であった。・・・之等使用人の証言は被告何番は三回、何番は五回、何番は一回拷問するのを見たと云ふ類で、詳細を求められると、検事の訊問と弁護士の反対訊問の場合で区々になる。大部分は起訴状の内容と変ったものになり、且つ件数が増して居た」(『われ死ぬべしや』p246)

戦犯裁判の検察側証言はどれもこの程度のものである。これに対して被告側は精一杯の抵抗を試みなければならない。寺田大尉の手記に次のような記述がある。

「九月二十三、四、五(月、火、水曜)に鎌田、三浦、涌井各准尉、和斯、清水、佐伯各曹長が証人に立った。皆立派な態度で堂々と証言したが、圧巻は鎌田准尉であった。彼は『一週間やりませう』と意気軒昂として出たが『之等証人が何故こんな証言をせねばならなかったか、その真情を察する時に同情の念を禁ずるを能はざるものがあります。』と感傷的な鋭い調子で述べた。裁判長は次の発言を抑へ、休憩を宣して弁護士に『被告に勧告すべきである』と言って席を立った。翌日の新聞には『被告は裁判長に叱られた』と出て居たそうである。」

最後に、鎌田喜悦准尉の遺書を『世紀の遺書』から紹介しておきたい。

遺書

余未だ存命なり。判決は九・二八、確定は一二・九、執行は未定なるも現実の生と悠久の活との境界日も近日中なるべし。今更記す事なきも許されたるを以て左に簡記す。

    記
一、母上に先に逝く不孝を許されよ。
二、一家一族を始め三十余歳世話になりし世の五恩に感謝す。願わくは永く幸福に暮らされんことを。
三、竹の園生の弥栄と万歳及一家の繁栄を祈る
四、余終日勅諭、勅語、国歌を奉唱しつつあり。
五、「ヒガミ」人間になるを絶対に戒しむ。
六、長き間に種々の伝言噂あるべきも動揺する勿れ。自らを信ずるもの最大の勇者なり。
七、左に駄句を記し置く
   おや桜むりの嵐に散りぬれど又来る春に小花咲くらん
   春毎に想ひを話せ軒つばめ
   天不測之有雲風 地不壌之有水壊 人一時之有禍福 我無眼中身虜囚
八、余の命日を確認することが出来ない場合は本日とせよ。
九、伝言者に対してはお礼を忘れずせよ。
十、誠を竭したることなれば断じて安心あれ。

何もかも水に流して俺は逝く
もろもろの世の味合や塩加減
天は日本晴笑ひ談じつつ逝く

 昭和二十一年十二月十一日十一時記す

  於馬来ペナン刑務所内 父 喜悦

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