第10回 ペナン裁判 (三)
前回、日本軍進駐後の占領体制においては、軍政部、警備隊、憲兵隊がそれぞれ行政、守備、治安維持の役割を担っていたことに触れたが、この組織的区分がいかに重要であったかを少し述べたい。
検察は、起訴状に記されている期間内に刑務所で多くの囚人が死亡したことについて、憲兵隊の責任であると法廷で追及した。しかし、昭和17年6月から始まった日本軍によるペナン占領の間、ペナン刑務所の監督は軍政部がこれを担っていた。これは刑務所の職員であったバグー・シンをはじめとする検察証人の証言でも明らかである。昭和17年3月から5月の2ヶ月間は、刑務所が山本という民政担当将校の監督下に置かれたことも検察側の証言が示すところである。また、当時警察署長の安藤氏がバグー・シンを昇進させたことは警察(これは文民の組織であり、軍の組織である憲兵隊とは根本的に異なる)が刑務所の業務に大きく関与していたことを示している。
日本の占領地における刑務所は2種類存在した。日本軍の軍法会議に基づき、運営も軍人が行う軍刑務所。そして、軍政部に属する文民によって運営される一般(文民)の刑務所である。日本軍が占領していようがいまいが、現地には庶民が暮らす社会が存在するし、そこには犯罪者も当然存在する。ペナン刑務所は文民の刑務所であったので、憲兵隊には監督権も責任もなかった。一般的には、憲兵隊は独自の拘置所を持っていて、逮捕者はそこに勾留された後で別の場所に移されていくのだが、このペナン憲兵分隊に関して言えば、昭和18年4月までそのような独自の拘置所を持っていなかった。そのため、刑務所に頼んで逮捕者を勾留してもらう有り様であった。しかし、一旦刑務所に身柄を預けてしまえば、取り調べの時以外は拘留者はすべて刑務所、つまりは軍政部の監督下に入ってしまうため、取調べ以外の食糧や医療などの管理は憲兵隊のあずかり知らぬところであった。その上、憲兵隊の取り調べにおいて容疑者が自供すれば、次は文民の裁判所で裁かれることになっており、そうなれば、それから先は憲兵隊には何の関わりもなくなってしまうのだ。これには責任の取りようがない。弁護人の主張はおおよそこのようなものであった。
不幸にも軍政部の監督下にあった刑務所で多数の死者が出たのは事実である。その理由や原因としては以下のことが挙げられる。自殺、死刑執行、病死、栄養失調、医療物資の不足等々。自殺に関して、もし憲兵隊か作りだした状況が自殺の原因だとすれば、倫理的な責任は問われるだろう。が、それで法的な責任を問うのは難しい。死刑執行については、これは刑務所の業務であり、憲兵隊には一切責任はない。もし裁判の誤審があったというのなら、それは裁判所の責任である。刑務所内での病気、栄養失調、医療物資の不足による死亡については、憲兵隊ではなく刑務所、つまりは軍政部の責任である。暴行などによる死亡は少しの例外を除いてほとんど見られなかったという。佐々城という憲兵隊員に暴行致死の疑いがあったが、彼はこの裁判の被告ではない。
俘虜に関して言えば、憲兵隊は捕らえた俘虜を俘虜収容所に送るようにとの命令を受けていたので、新たな命令なしに捜査や取調べなどはできなかった。例外としてジャック・ベネットという俘虜の事件があるが、これには佐々城が関わっていたと思われるし、検察証人のジット・シンの証言も曖昧模糊としている。この手の証言は割り引いて聞くべきであろう。つまり、この戦犯裁判の被告が俘虜を虐待したとは全く立証されていない。
この裁判は、憲兵隊による拷問や虐待により何百もの囚人が死亡したという罪状で始められたものであったが、それを明白に立証する証拠はなかったのである。証拠として採用されたものは、検察証人の証言であった。クァイ・グアンという刑務所の事情に最も精通していた元職員の証言から裏づけられたことは、2、3人の囚人が虐待により死亡したということのみである。その証言が正しいとしても、死者のほとんどは虐待以外の理由で死亡したということになる。
憲兵隊はその悪名高い評判から、他の誰かの責任まで負わされたといえよう。ペナン憲兵分隊と死亡した数百人の関連性を、検察は立証できてはいなかったのである。
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