第23回 ポートブレア編(2)
いい加減なポートブレア裁判の最初の犠牲者になったのは、金子稔海軍上等兵曹であった。。
起訴状は次の通りである。
「被告人は1945年2月またはその前後に戦争法規と慣習に違反し、ポートブレア住民のマクンディ氏に対する虐待と傷害に関与し、その結果マクンディ氏を死に至らしめた。」
検察の主張をまとめると次のようになる。
1945年2月金子上等兵曹は、バンブー・フラッツ病院の庭で草を食んでいた水牛を見つけて、これを撃ち殺した。その後、他の日本人と水牛の所有者を探し、現地農民のマクンディを見つけだし、逮捕し、病院まで連行した。そこで、マクンディを柱に縛りつけると、金子上等兵曹は2時間半にわたって彼に暴行を加えた。マクンディは意識を失ったが、お湯をかけられて目を覚まし、また虐待された。その日の夕方にマクンディは死亡し、遺体は村民たちによって翌朝埋葬された。
これに対し弁護側は人違いを主張した。検察側の証人は虐待事件の犯人と金子上等兵曹とを誤認しており、事件の発生した時つまり1945年4月、金子上等兵曹は入院していたと主張した。金子上等兵曹本人の医療手帳も証拠として提出された。当時金子上等兵曹は左踵を負傷して歩行さえ困難であったという。弁護側によるとこの事件に関与したものはKという男であり、そのために懲罰を受けたが、裁判当時、既に死亡していた。
検察証人の証言には矛盾が多いのだが、ラムザン・アリという検察証人の証言とマニラルという者の宣誓供述書を証拠として裁判長は金子上等兵曹に対して絞首刑の判決を言い渡した。英国の裁判の慣例として、判決後に嘆願書を提出することが認めれられており、幾つか寄せられていた。医療隊指揮官の福田省三中佐と第10艦隊総司令官福留中将からのものであった。そこには、この事件の犯人は金子上等兵曹ではなくKである旨が述べられていた。福田中佐がこの事件のことをよく知っていたのは、事件の翌日に行われた被害者の葬式に、バンブーフラッツ村長と共に福田中佐が参列したからである。その時の具体的な場面として、石川軍医大尉の挨拶をアブドル・アヂスという少年が通訳したことが述べられていた。
この判決は英本国で確認された後、1946年5月25日シンガポールのチャンギー刑務所で執行された。
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