第26回 ポートブレア編(5)
粟国良助海軍機関兵長、山口春男上等兵曹の二人も、ポートブレアにおける現地人労務者に対する虐待致死事件で絞首刑となった。二人はポートブレアでインド人労務者の監督にあたっていた。
二人の罪状は次の通りである。
1945年6月のある日、アンダマン諸島のアリプール(Alipur)において、朝の点呼に姿を見せなかった労務者チェト・ラム(Chet Ram)を二人が探し出し、点呼の場まで連れてきた。そこで二人はチェト・ラムをポールに縛り付け、暴行に及んだ。チェト・ラムが意識を失うと目を覚まさせ、暴行を繰り返した。そうしているうちにチェト・ラムは死亡した。以上が検察の主張である。
一方、弁護側は次のように主張した。
粟國機関兵長は1945年5月29日から7月中旬までポートムアトにおり、アリプールを離れていた。そこへ戻って初めてチャト・ラムが死亡したことを知ったのである。また、粟國機関兵長は炊事係だったので、朝の点呼には出たことはなく、チャト・ラムを殴ったことは1度もなかったと主張した。そして彼のアリバイを証明するために二名の証人が法廷に呼ばれた。一方、検察証人のクル・カーンとカーン・モハメドは、事件は粟國機関兵長が出発する前に起きたと証言した。彼らが主張するところによると、事件は高台にあった日本人兵舎の前で起きたことになっているが、粟國機関兵長が出発する前の5月下旬にはまだ日本人兵舎は高台に建っていなかった。兵舎の移動は6月上旬に行われ、3日間を要した。この引越しの間に、粟國機関兵長からの最初の報告がポートムアトからあり、仲原という者がこれを受け取っていた。粟國機関兵長の有罪を立証するには、彼が引越しのあとにアリプールを発ったことを証明せねばならない。しかし判事は、粟國機関兵長のアリバイについて、アリプールを離れていたとされる期間に一度もアリプールに来ていたことがないということを弁護側が立証できていないと断じた。
山口上等兵曹もチャト・ラムへの暴行を否認し、死亡の責任は一切ないと主張した。弁護側はチェト・ラムの死因は赤痢による病死であると主張した。山口上等兵曹は、チャト・ラムが赤痢にかかっていたと聞いていおり、6月のある日チャト・ラムの死亡を労務者が報告してきたので、山口上等兵曹は遺体を確認しに行っている。検察は、山口上等兵曹がチェト・ラムへ暴行し死亡させたことを立証できていない。
この裁判では山口上等兵曹のみが対象の罪状もあった。それは次の通りであった。
検察によると、1945年7月のある日、当時山口上等兵曹の下で働いていたファテフ・モハメド(Fateh Mohamed)は、山口上等兵曹以外の日本人から休みの許可を得てアバディーン村へ行った。同日、山口上等兵曹も他の労務者と共に食糧調達の目的でその村を訪れていた。そこで、山口上等兵曹はサトウキビを売っているモハメドを見つけた。山口上等兵曹はモハメドが無断で休んでいるものと思い、他の労務者たちとアリプールへ帰るように命じた。チャタム・ジェッティ船着場までの3マイルの帰り道、山口上等兵曹はことあるごとにモハメドを棒で殴り、船着場でフェリーを待つ間は彼をポールに縛り付け暴行した。フェリーが着いたときにもまた暴行を加えた。そこでモハメドは死亡した。その遺体を船着場に残し、山口上等兵曹一行はアリプールへ帰っていった。
これに対する山口上等兵曹の主張は次の通りである。
モハメドが休むための許可証を持っていなかったため、アリプールへ一緒に戻るように命令した。が、船着場へ向かう途中、モハメドは逃亡した。その後、モハメドは他の労務者たちによって連れ戻された。その時、労務者らがモハメドに持ち物を盗まれたと不満を訴えたので、山口上等兵曹はモハメドを叱りつけ、素手で殴ったという。しかし、棒で殴ったことやポールに縛り付けたことなど一切なかったと主張した。また、モハメドが気分が悪いというので自由にしてやったとも主張した。モハメドはバンブー・フラットで山口上等兵曹と別れた。そしてその翌日、山口上等兵曹はモハメドが死亡したと聞いたのだという。山口上等兵曹は法廷で、検察証言人が嘘をついているとしか思えないと訴えた。
結局、検察証人となったインド人労務者の証言と宣誓供述書を証拠として二人の被告は有罪となり、絞首刑に処せられた。戦犯裁判、とりわけポートブレア裁判の典型的な事例である。
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