第25回 ポートブレア編(4)
金子上等兵曹に対して、法廷は検察証人ラムザン・アリの証言とマニラルの宣誓供述書を証拠と認め、絞首刑の判決を言い渡した。その時スミス裁判長は以下の様に述べた。戦犯裁判では、判決を言い渡す際に裁判長が判決の理由を述べることはほとんどない為、これは珍しいケースといえるので紹介しておきたい。読者諸氏はどんな印象を抱くであろうか。
スミス裁判長
2月にマクンディを殴打したことと別人を4月に殴打したことが似通っているうえ、都合のよいことにKが死亡しているおかげで、被告人は強力な弁護を受け得た。しかし、本法廷はその弁護を不完全なものと見なす。(中略)本法廷の見解では、この犯罪はどのような国においても重罪の筆頭にあげられるものである。英国の法では、そんな犯罪への罰は一つをおいて他にない。マクンディは英国臣民であり、ここは英国の法廷である。被告人は英国の裁きを受けるのだ。(中略)被告人を絞首刑に処す!閉廷。
この判決の後、英法務当局宛に福田省三海軍軍医中佐と第10艦隊総司令官の福留中将からの陳述書が届いた。2通とも事件の犯人は金子兵曹長ではなくKであったと述べていた。ここに、事件の経緯を詳しく述べてある福田海軍軍医中佐の陳述書を紹介したい。
陳述書
海軍軍医中佐 福田省三
被告人金子稔に関する戦争犯罪事件に付左の如く陳述す。
本官は1944年2月以降1946年1月に至る迄の間十二特根軍医長として「ポートブレーア」に勤務し、一ヶ月二、三回位同地バンブーフラット病舎に赴き居たり。
1945年4月下旬同病舎に於いて現地人死亡事件ありて、其の翌日本官は同病舎に赴き葬式に参列し、同病舎主任石川軍医大尉より実情を聴取せり。其の結果右死亡者は「バンブーフラット」部落「マクンディ」なる者にして其の死亡直前同病舎勤務者K.S.上衛曹(1945年11月8日急性肺炎にて死亡)が同人を殴打せし事実判明せるを以て同人に対し謹んで死者の冥福を祈る様訓戒し置きたり。右事件は本官不在中の出来事なり。
而して被告人金子稔は事件発生当時は左足趾を負傷しありて治療の為休養中にして歩行困難の状態に在りて、本件には全く関係なきものなる事を信ず。
尚右事件に関し昨年2月中の出来事なる旨証言する者ある由なるも、右は被告の陳述各証人の証言及左記事実等に依り全く誤にして、4月下旬が真実なり。而して昨年2月中之に類似するが如き事件の発生全然なし。
(イ)本官は会葬日の夕刻通船にて「バンブーフラット」より「アバジーン」に帰る途中波浪のため危険を感じ引返し同夜は「バンブーフラット」病舎に一泊せるに付、特に印象深し。
(ロ)本官は事件後直ちに同事件に関し4月中旬頃来、謄石症にて病臥中なりし城地民政部長を之が宿舎に訪ね報告せり
(ハ)葬式の際バンブーフラット村長列席しありて現地人少年通訳「アブドルアヂス」なるもの石川軍医大尉の挨拶を通訳せり。
右の通り本件に関し「マクンディ」なる者を殴打せるものは前記K.S.上衛曹にして金子稔が加害者なりとして有罪の判決を受け絞首刑の極刑に処せられたるは誠に気の毒に耐へずして、深く遺憾とする処なり。再調査の上、原判決の変更あらば本官の喜之に過ぎるものなし。
1946年4月21日
第十二特務軍医長(在レンパン島)
海軍軍医中佐 福田省三
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