第17回 ペナン裁判 (十)
村上誠毅准尉は山口県出身。享年三十二歳。村上准尉も他の英霊と同じく、たいへん優れた遺詠を残している。これらの遺詠が今も人の心を打つのは、散りゆく心に人の誠を見るからである。『世紀の遺書』に載せられている村上准尉の遺書と遺詠をご紹介しよう。
一、昭和二十一年十二月九日馬来半島ペナン刑務所に於て戦争犯罪者として死刑と決定す。
二、戦争犯罪者の名を蒙るも自己に於ては何等恥ずべき行為なく只誠の一字に尽きるなり。
三、現在の心境は明鏡止水の如く従容笑って死につく覚悟なり。
四、両親並兄上に受けし厚恩の万分の一をも返す事なく黄泉に旅立つ事御許を乞う。
五、親戚、近隣部落御一統へ宜敷御伝へ被下度。
六、現在迄の徒然を歌として左に記す。
国の為散りし屍を踏み越えて吾も進まむ敷島の道
天皇の為には何か惜しからん馬来の野辺に身を砕くとも
みよしのの花の咲く迄吾またん日本島根の春はかはらじ
馬来半島(このところ)日本男の子の夢の跡
人知れず夜嵐に散る山桜
以上が村上准尉の遺書である。
「敷島の道」とは「和歌の道」を指す言葉である。元々、「敷島」とは「大和(日本)」を表す言葉で、「敷島の」と言えば「大和」を導く枕詞である。したがって「敷島の道」という言葉の響きには、「日本」と「歌」が結びついており、当然そこには國を想う心が込められている。つまり「敷島の道」が「歌の道」であるということは、歌こそが國の根幹であるというわが國古来の思想を表しているのである。わが國においては、神、天皇、貴族、武士、民、百姓、皆が歌を詠んできた。そして、千年、二千年も昔の歌に今も涙し、詠み手の心と一体となれるのである。これが歌の「効用(さきはひ)」である。古よりわが國わが民族を成立せしめているのは、正しくこの歌の「効用」であり、これを知っていればこそ散りゆく者は歌を残し、そうすることでその魂は帰るべき所に帰って行けるのである。然して歌を介して一体となった國と民は、久しく永らえていくのである。散りゆく武人の哀しき歌の中に希望の光が見出せるのは、その為である。
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