秘録 BC級戦犯裁判 42

秘録 BC級戦犯裁判

第42回 ポートブレア編(21)

ポートブレア関連裁判はまだ続く。海軍工員としてアンダマンで働いていた沢根初太郎氏、内村貞雄氏も、これまで見てきたのと同じような事件で処刑された。この裁判にはもう一人、谷口氏という被告がいたが、この人は禁錮15年となり、命は助かった。3人とも海軍軍属として現地で農業指導にあたってたが、検察は、彼らの下で働いていた労務者5人が彼らの虐待によって死亡したとしてこの3人を起訴したのであった。

検察によれば、事件が発生した1945年7月から8月にかけて、ポートブレアのウィンバリー・ガンジ地区で、五人の被害者は食糧を盗んだ容疑でそれぞれ被告たちの所へ連行され、取り調べを受けたという。その際、沢根氏と内村氏が棒などで彼らを殴ったとされる。特にワリ・モハメドという被害者は、両氏によって木に縛られ、暴行され、そのまま3日間水も食料も与えられなかったのだという。この様な虐待の結果5人の労務者たちが死亡したというのが、検察の主張である。判決において谷口氏はワリの事件に関する起訴を取り下げられ、死刑は免れた。

裁判は、他のポートブレア裁判同様、検察証人の証言と供述書を証拠に行われたが、これらの証拠がいかにいい加減なものだったか、紹介してみたい。

まず、検察証人となったモハマドの最初の供述書の概要をご覧いただきたい。

1945年7月15日頃、ラマスワミは内村の畑から野菜を盗んだ。それを知った内村は翌朝、2人の日本人を連れてラマスワミの家に行き、野菜を発見した。すると彼らはラマスワミを内村の家に連行した。内村はラマスワミが意識を失くすまで棒で殴った。私は内村の家の小屋にラマスワミを運んだが、翌日彼は死亡した。私は彼らが暴行しているのを見た。

1945年8月4日頃、シャカルナルダは内村の畑からイモを盗んだ。そして、内村と沢根に棒で殴られ、意識を失った。すると、内村と沢根は彼に水をかけ、目を覚まさせると、また暴行を始めた。最後にお湯を彼にかけた。そして、内村は他の労務者2人に、彼を警察署へ連れて行くようにと命じた。しかし、シャカルナルダはその途中で死亡した。50歳くらいだった。

1945年8月28日頃、ワリ・モハメドは内村の畑から野菜を盗んだ。彼は内村、沢根、谷口によって、木の幹に縛り付けられた。ワリは3日間そのままにされ、その間毎日内村、沢根、谷口は棒で彼を殴った。食糧も水も与えられず、4日目に彼は死亡した。

しかし、モハマドの法廷での証言は、この供述と大分違う。

モハアドは法廷で次のように証言した。ラマスワミは何処から取ってきたのか知らないが、タバコの葉をもっていて、それを家に隠し持っていたが、内村、沢根、谷口によって見つけられ、内村の家まで連行された、と。そして、内村と沢根がラマスワミを木に縛って暴行し、谷口は指示を出していただけだったとも証言した。この時、何語で指示を出したか法廷が質問すると、モハマドは「谷口はヒンズー語を話せた。ラマスワミにタバコの葉を盗んだことを問いただしてから、彼を暴行するように命じた」と答えた。また、モハマド自身は事件のとき現場周辺で草を刈っていたとも証言した。また、ラマスワミの死亡を知ったのは翌朝で、内村が死亡を伝え、埋葬に参加するように言ったと証言した。

ワリの事件についてモハマドは、事件は1945年8月25日か26日に起きたと証言した。被告の3人はワリを大きな木に、手を後ろに縛り付けて、このまま放置しておけといったという。それから、労務者たちは仕事に出かけた。翌朝、その場所にまだ彼は縛られていた。何か口にしたのかと尋ねたら、何も口にしていないと答えたという。そして、そのまま3日か4日経った。彼の手足は腫れていた。彼が開放されたとき、歩くこともできず、3、4人で助けた。小屋に着くと、口や鼻から水を流して倒れ込み、死亡したのだという。

供述書と証言の内容がここまで異なると、やはり信憑性に疑いが生じてくる。

被告たちも、検察証人の述べたことは事実と異なると主張した。谷口氏は暴行、虐待の一切を否認し、沢根氏と内村氏は、何人かクーリーが食糧を盗んだために平手打ちしたことはあったが、死亡するような暴行などしていないと主張した。内村氏はワリを木に縛ったことは認め、沢根氏もワリに2度ほど平手打ちを加えたことは認めた。しかし、2人ともワリの死因はマラリアであったと主張した。弁護人も、ワリの死因が被告たちの行為によるものであると検察は立証できていないと主張した。そもそも、谷口氏は、内村氏がワリを木に縛るのを見たが、その後すぐに民政部のあるアバディーンへ停戦の確認報告のために出発し、翌日帰宅したと述べている。これは弁護側証人の証言によっても裏付けられる。また、モハマドの供述や証言では、ワリが縛られたのは8月25、26、28日のいずれかということであるが、内村氏、沢根氏の2人は8月17日だったと断言する。その日に終戦を知らされたのでよく覚えていたのである。

結局のところ、これらの事件も他の事件と同様、盗みをした労務者に対する体罰が誇張され、検察の力により暴行致死事件へと仕立てあげられたものである。現地ではマラリアで死亡するケースがほとんどであった。

内村氏は死亡したとされる5人の労務者のうち、シャカルナルダ、ヌル・モハメド、シェル・カーンに対する暴行については、一切否認した。ラマスワミ、ワリ・モハメドに関しては、盗みを働いた労務者を警察に引き渡すのは忍びないので、自分たちでなるべく事件を処理するようにしていたと証言した。つまり、体罰はある意味では温情主義によるものであった。これは、憲兵隊を非常に恐れる日本兵の間でもよく聞く話である。沢根氏はラマスワミ、シャカルナルダ、ワリ・モハメドに対する暴行については認めたが、ヌル・モハメド、シェル・カーンについては否認した。

3人の被告に判決を言い渡した後、裁判長が検察証人ワッサント・シンとモハマドを呼んで次のように述べた。

“Wassant Singh and Mohammad, the Court desires to congratulate you on the excellent way you have given your evidence in this case. We know very well that it must be a great inconvenience to come all the way from your homes for this purpose, and we desire to say that we very fully recognize what you have done in coming so far to give evidence. We ask that when you return to the Andamans you will communicate to the families for those who lost their lives at the hands of these monsters our profound sympathy and sorrow for the loss they have suffered.”

このようないい加減な裁判で被告2人を死刑にし、その上、被告たちを「モンスター」呼ばわりしたのである。これが戦勝国イギリスのメンタリティである。

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