秘録 BC級戦犯裁判 7

第7回 日高巳雄 法務少将 (五)

前回、ワイルド大佐の偽証について触れたが、このような証言や陳述書が法廷に出される度に、それらを事実と思い込み激昂した英国人看守が、当の被告人だけでなく、裁判を待つ他の容疑者たちに対しても「仕返し」を加えることは、戦犯収容所では日常茶飯事であった。看守らの暴力で最もよく知られたのは所謂「殴り込み」と呼ばれるもので、皆が寝静まった夜中に複数の看守が一人の日本人を標的にして、文字通り半殺しにするのである。さらに、「拷問体操」なるものも戦犯の手記に頻繁に登場する。これは、復讐の一環と見られる「空腹」処置によって気力と体力を奪われた日本人囚人たちに、強制的に激しい体操をさせるものであった。戦犯たちの手記には、このような場面を生々しく証言しているものもある。ここに、ある手記の一節を紹介したい。

何十分かの激しい拷問体操が終ると、私達は大部屋の片隅に集合を命ぜられた。そこは以前は作業場であったらしく、周囲に頑丈な鉄格子に、部厚い金網を張り巡らしたコンクリートの薄暗い部屋である。
 その頃私達は渋柿色の短いシャツとパンツを着せられていた。それが死刑囚の規定された囚衣であるが。その恰好はまるで痩せ細った奴さんの如く、外から見ても甚だ陰鬱で、しかも哀れに見窄らしかった。
 番兵は横線をひくと、私達を肘と膝とをついて四つ這いにさした。向うの端まで四つ這い競争をやれというのである。むき出しの肘をついてコンクリートの上に四つ這いになることは痩せ衰えた私の肉体にとってはこの上もなくつらかった。這うだけでも直に心臓の上に石でも載せたような痛みがある。『カム・オン』の号令に革の紐が激しい唸りをたてると、私達は追われる小豚の如く、広場の中をごそごそと這い廻る。私の肘や膝は忽ち真紅になった。(『われ死ぬべしや』pp.224-5)

なぜ英国人が、日本人の囚人に対し、食糧を十分持っていながら少量しか与えず、意図的に彼らを空腹の状態に置き、その上でここに述べたような拷問を行っのか。はっきりしたことは何一つ言えないが、報復の他に何か理由があろうか。そして、この「報復」の種は法廷における検察証言から得ていたのであろう。それが偽証であろうが関係ない。憎き日本人を痛めつける口実さえあればよいのである。このようにして、敗戦後に日本人が不当に受けた傷については後々詳しく述べていかねばなるまい。

敗者に対する斯くも酷い辱め、これはある意味戦闘よりも悲惨であった。日本人はこれによく堪えた。まさしく、堪えがたき堪え、忍びがたきを忍んだわけであるが、その理由はただ一つである。祖国の再興ためである。今ここで自分が反抗すれば、その分だけ祖国の復興が遅れる。自分は祖国復興のための礎である。そのためにはどんなことにも堪え、命も捨てる。この思いで彼らはまだ闘っていたのである。終戦の詔勅の後のことである。今の日本国民の一体何人がこの戦犯の痛切なる心を知っているだろうか。『世紀の遺書』という戦犯の遺書を集めた書物があるので、是非多くの方々に読んでいただきたい。

その『世紀の遺書』に収められてある、日高少将の妻に宛てた遺書の一節を紹介しよう。

(前略)世人は戦犯者の家族と蔑視するかもしれぬが私は少しもまがったことはして居ない。此の事はよく承知してくれ。只敗戦の犠牲になったのだ。然し私は黙々として死んで行くことが君の為、国の為と思い私の死も祖国再建の礎石となるものと確信して居る。私は名誉の戦死を遂げたものと思ってくれ。悲しからう、淋しからうが我慢してほがらかに子供達を育ててくれ。(後略)(『世紀の遺書』p.356)

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