秘録 BC級戦犯裁判 6

第6回 日高巳雄 法務少将 (四)

前回は、日高少将が公判前に書き、現在は英国公文書館に保存されている、宣誓陳述書をご覧いただいた。事件の概要はこれで大凡把握していただけたことと思う。さて、今回は、その陳述書にも何度か登場したワイルド大佐について触れなくてはなるまい。それは何故か。ワイルド大佐は一連の「復讐」裁判における重要な仕掛け人の一人であったとみられるからである。

ワイルド大佐の名前に聞き覚えのある人も多いと思う。彼は、昭和二十一年九月に東京裁判に検察証人として出廷し、東南アジアにおける日本軍の「悪行」について証言したことで知られている。また、昭和十七年二月のシンガポール陥落の際、降伏交渉に向かうパーシバル将軍の傍で白旗を持っていた人物としても、知られている。当時はまだ少佐であったが、ワイルドは日本語を話せたため、山下将軍とパーシバル将軍との会談に同席し通訳を務めたとされる。この日本語能力がそれからの彼の運命を変えていったと言ってもよい。

ワイルド一家は英国国教会の牧師の家であったが、昭和五年にオックスフォード大学を卒業したその翌年、ワイルドはロイヤル・ダッチ・シェルの日本法人であるライジングサン石油株式会社の幹部として来日した。そして、昭和十五年に欧州で第二次大戦が勃発するまで、日本で生活を送った。この十年の間にワイルドは日本語を習得したことになる。帰国後に陸軍に入隊すると、ワイルドは情報将校としてマレー北部に派遣された。もちろん、日本の南下を見据えてのことであった。日英開戦後、マレー半島そしてシンガポールは山下奉文将軍の手によりあっけなく陥落し、山下・パーシバル会談にワイルド少佐は同席することとなった。日本軍に降伏した後は日本軍と英国軍との連絡将校を務めていたが、昭和十七年五月には泰緬鉄道建設のためタイ・ビルマ国境地帯へ送られ、そこで過酷な毎日を送ることとなる。

この俘虜としての屈辱的な経験が後の戦犯裁判にどのような影響を及ぼしたかは、想像に難くない。実際、終戦の後、その日本語能力が買われたワイルド大佐は、英軍の戦犯調査班を率いることとなった。ワイルド大佐は精力的に動いた。マニラに赴いては、米軍に囚われた山下将軍に面会し聴取を行い、東京に出かけは東京裁判で証言もした。そして、ワイルドが昭和天皇訴追に執念を燃やしていたことは知られている。しかし、東京からシンガポールに戻る途中、昭和二十一年九月二十五日、経由地香港で飛行機事故のため死亡した。

英軍が行ったBC級戦犯裁判におけるワイルド大佐の存在は大きかった。ほとんどの英国人は日本語を解さないし、日本人も多くは英語などわからなかった。それ故に、戦犯捜査に関する多くがワイルド大佐の日本語能力に依存していたのである。彼自身が調査班を率い、容疑者の取り調べを行い、聴取の記録を英訳し、裁判では検察証人として証言もする。物的証拠などほとんど存在し得ない戦犯裁判では、証言と宣誓陳述書が証拠の全てと言ってよく、必然的に、その証拠の多くが、直接間接にワイルド大佐を介するようになる。だからこそ、ワイルド大佐の言動には一層の注意を払う必要があるものと考えられる。これは筆者が戦犯裁判の記録をいろいろ調べているときに実感したことでもある。

ある別の裁判では、被告が公判前に陳述した内容と全く違うことが英文の陳述書として提出され、被告がこれを訴えたために、裁判長がいちいち被告に質問しながら陳述書を確かめるということがあった。この陳述書を作成したのはワイルド大佐であった。これから考え得ることは、ワイルド大佐の日本語能力が実務を遂行できないほどに低いか、もしくは、ワイルド大佐が意図的に陳述書を改ざんしたかのどちらかしかないのである。筆者は後者と考えるが、公平に申して、確たる証拠があるわけではない。しかし、筆者と同じような、ワイルド大佐に対する疑念を抱いた「戦犯」が実際にいたことは事実である。しかも、それは日高少将と同じ裁判で裁かれた人物であった。その手記が『われ死ぬべしや』という戦犯の手記を集めた本に収められており、ある一節に次のように記してある。

シンガポールの戦犯裁判に於いて、検事側証人の偽証によって、致命的打撃を蒙らなかった事件というものは、私の聞いた範囲では一件もない。私のケースの例をあげると、特に最も致命的だったのはワイルド大佐とピコチーという精神病者の証言であった。私達のケースは、ワイルドの偽証によって大勢を決定された形だが、彼の証言の一例をあげれば、こんなのがある。『陸軍刑務所より俘虜収容所病院に転送されてから死亡した患者は、十名から二十名に上る。而も同刑務所から送られた患者は、皆肘と膝の皮と肉が破れて白骨が露出していた。これは歩けない重症患者でも、食事配分を受けるために、肘と膝で石の上を這って行かねばならなかったからである』と。然るに戦時中この俘虜収容所の病院長をしていたハッチソン軍医中佐はわが弁護人の反対尋問に答えて『陸軍刑務所から俘虜収容所病院に転送後死亡した患者は一名だけである。又同刑務所から送られて来た患者は全部知っているが、肘と膝の皮と肉が破れて白骨が露出していた者は一名もなかった』と述べている。これで見てもワイルドの言は少なくとも十倍乃至二十倍の誇張と虚構の証言である。

(『われ死ぬべしや』 216~217頁)

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