第13回 ペナン裁判 (六)
御民我尽して果てむペナン島
これは和斯倖嗣憲兵曹長の遺詠である。彼はペナン裁判の被告中、起訴対象の全期間3年5か月を勤務した唯一の憲兵であった。しかし、それは残った者として不在者の責任まで負わされることを意味する。彼の顔と名前は住民に知られているため、住民らが嘘の証言をするときには都合のよい存在となってしまうのである。そうして作られた検察の話を全て信じれば、和斯曹長は残忍この上ない人物となる。勾留中の容疑者を何人も死に追いやり、その中には妊婦もおり、腹を蹴って死なせたことにもなる。このような証言が全く信憑性のないものであることは、これまでも度々述べてきたが、ここでは寺田大尉の手記に記された和斯曹長の真の姿を紹介したい。
裁判も佳境にさしかかり、弁護人が寺田大尉を訊問した際、寺田大尉はあることを試みた。それは、寺田大尉の和斯曹長を救いたいという想いから生まれたものであった。これは寺田大尉が和斯曹長の人柄を高く評価していたからに他ならない。その人物評によれば、和斯曹長は性来勤勉、責任観念旺盛で、所命事項完遂の為には、休日も夜も敢て意としなかったという。その当然の結果として、和斯曹長は多くの諜報、共産分子の検挙に関係した。そしてその帰結として、起訴の対象となり、さらには、捏造された罪や責任者不在の件の罪まで負わされたのである。これに寺田大尉は黙って居れなかった。
「私は口には出さなかったが、あれでは到底助からぬと思った。それにしても、彼を悪逆無道、残忍の徒として死なせたくなかった。彼の本来の性質、情誼の厚い面を幾多の実例に依り-それは現地人の間にも知られて居る事である-弁明し度いと思った。しかし私の望は『今は事実審理の時である』と云う理由で発言の機会を充分に与えられなかった」(『われ死ぬべしや』p253)
この気持ちを裡に秘め、寺田大尉が証言したことは、和斯曹長が肺浸潤で昭和十八年以来毎年暮れは入院していたとうことであった。この入院期間にも和斯曹長に対する起訴事案があったため、和斯曹長の不在を証言し、起訴の誤りを指摘しようとしたのである。この寺田大尉に対し、検事は偽証であると迫った。証言中は裁判長に向かっている証人の寺田大尉に対し、検事が被告席を向くように命じ、そして和斯曹長にも起立するよう命じた。
「お前達よく顔を見合せろ。入院したと云うが病院で調べてもそんな事実はない。殴っても死なない男ではないか、お前達は話し合って真赤な偽の証言をしたのであろう」と検事は机を叩き声を荒げたのである。
この時の寺田大尉の胸の裡は次の通りである。「和斯曹長の目は潤んで見える。私も目頭が熱くなった。ペナンへ呼ばれる前も、タイピン刑務所の病院に居たのだ。この明白なる事実さへ信じて貰えないとすれば今更何を云はう。私の憤懣の裡に検事の訊問は終った。」その次に行われた裁判長による補充訊問は、「被告の証言は之を採らない。然し被告の部下を庇う証言の態度には敬意を表する」と締めくくられたという。
憲兵隊の任務として、和斯曹長は容疑者や関係者の取り調べを数多く行った。検察はその中に妊婦もおり、和斯曹長が腹部を蹴り、これを殺害したと訴えたが、実際のところその女性は出産したのであった。和斯曹長はこのことを同僚の涌井と清水から聞いていた。また、法廷においても清水はそのように証言している。和斯曹長の名誉のためにも、この一事だけはここに記しておきたい。
最後に和斯曹長が兄に宛てた遺書を紹介したい。そこから、和斯曹長の人柄を偲んでいただきたい。
兄様
兄様馬鹿な弟を持って大変でしたね。悪しからず。でも私の運命は三十一歳で終る運命でした。何も悲しんで居りません。又私は入営以来日本が敗戦する迄尽忠報国の精神に燃え働いて働いて働き通しましたが、不幸敗戦と決し其の為死すべき運命となりました。
何も思ひ残すことはありませんが只歳老いた母様のことが気に掛ります。どうか兄様母様を大切に、又私の分迄孝養をお願ひ致します。不必要なこととは思ひますが私には心配すべき女も居りませんし、又子供も居りません。又私の遺品となるべき品物は兄弟姉妹に分けて私を偲んで下さい。
多分遺骨は帰らないと思ひますが、魂は必ず故郷に帰ります故、父様の横に祭って下さい。又私の知人が尋ねて来るかも知れませんが、その時には充分なご馳走をして私を偲んで下さい。
くどくどと書きましたが、何分母様を大切に。では家庭のご多幸と兄様のご壮健をお祈り致します。
昭和二十一年十二月十日
於ペナン島
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