第14回 ペナン裁判 (七)
三浦市蔵准尉は福島県出身、三十八歳で逝った。ペナン憲兵隊には昭和十八年一月から同年九月まで任務に就いていたが、彼の本来の職務は総務であり、取り調べには九月に関わったのみである。そのような三浦准尉にも検察の網はかけられ、取り調べ中の虐待致死事件を仕立て上げたられてしまった。死亡したとされる人物と三浦准尉は全く無関係であったが、言い渡された判決は絞首刑であった。
しかし、その刑が執行される瞬間、三浦准尉の心は日本晴であった。日本の武人として正に天晴な精神であった。その心により、残された家族の心もまた救われるのである。それは『世紀の遺書』に載る彼の遺書を読めばお分かりいただけよう。
遺書
父上 兄上様へ
一、昭和二十一年十二月九日ペナン刑務所に於て、死刑決定を言渡され数日後に決行せらる。
二、戦争犯罪者の汚名を着せられたるも、自己に於て何ら恥ずべき行為なし。笑って死に就くなり。
三、父兄上に先立つ不孝と現在迄受けたる御恩を返す事なく死ぬことを御許し下さい。
四、(略)
○○、○○様へ
一、総ては運命なり。将来苦難の道多けれども強く正しく生きよ。
二、○○は強く正しく世の為人の為になる人となれ。高位高官たるよりも立派な人となれ。
三、(略)
四、父として夫として務めを尽さず死ぬことを許せ。
終戦の大詔畏みて我は進まん敷島の道
山櫻夜半の嵐に散りぬれど又来る春に花を開かん
国の為誠一途(すじ)務めしも今は敗れて夢と散りぬる
帰り待ち妻子よ我を怨むなよ誠尽くして我は逝くなり
暴風(あらし)去り父を失う母子鳥来る年月を如何に送らん
現在の心境は日本晴なり。最後に皆様の御多幸を祈る。
昭和二十一年十二月十一日
於ペナン刑務所内
享年三十八歳三浦市蔵記す
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