秘録 BC級戦犯裁判
第32回 ポートブレア編(11)
前回述べた中野裁判では、被告を絞首台に送るには検察証人の証言一つで十分で、その証言の信憑性は問われなかったということがお分かりいただけたと思うが、そのようなケースは戦犯裁判ではめずらしいことではなく、今回紹介する小島武治氏もまた、ポートブレアで発生したとされる現地住民虐待致死事件の罪を着せられ、処刑された日本人の一人だ。小島氏は軍人ではなく民間会社社員として現地勤務する民間人であったが、会社が日本軍と取引があったために、軍事法廷で裁かれたのである。
検察が主張した小島氏の罪状は3つからなる。
- 1944年10月1日またはその近日、ポートブレアまたはその近郊で現地住民のナルパスに暴行、拷問、虐待を行い、死亡させた。
- 1944年10月1日またはその近日、ポートブレアまたはその近郊で現地住民のアナンダとカンダスワミ・ゴンダの二人に対して暴行、拷問、虐待を行い、カンダスワミ・ゴンダ氏を死亡させた。
- 1945年6月6日またはその近日、ポートブレアまたはその近郊で現地住民のチトラ・ベル、グル・モハメド、マルギ・シンに対して暴行、拷問、虐待を行い、チトラ・ベルを死亡させた。
つまり、小島氏が合計6名の労務者に暴行や拷問を行い、その内3名を死亡させたとういうのだ。小島氏は1944年3月から1945年8月まで、日本軍が占領するアンダマン諸島ポートブレアで日本軍に船舶を供給する造船会社に勤めていたのだが、事件の被害者とされる、ナルパス、アナンダ、カンダスワミ・ゴンダ、チトラ・ベル、グル・モハメド、マルギ・シンの6名はそこの従業員として働いた。つまり、小島氏は彼らの現場監督であった。
ララ検察官の主張は次の通りである。
1944年10月のある日、ナルパスが仕事を休んだため、翌日小島氏はナルパスをある部屋に呼び出した。すると、そこで彼を縛りつけ、棒で激しく殴打した。ナルパスが意識を失うと、小島氏は冷水をかけてナルパスの目を覚させた。そこでアナンダがナルパスに水を与えようとしたところ、アナンダも小島氏から暴行を受け、さらに、ナルパスを殴るように言われた。その後、ナルパスは病院に運ばれたが、その日の夕方に死亡した。
その2日後、カンダズワミ・ゴンダが欠勤したあとも小島氏から同様の暴行を受け、その日の夕方に死亡した。
1945年1月にも、チトラ・ベル、グル・モハメド、マルギ・シンが欠勤した後に縛られ、小島氏から同様の暴行を受け、チトラ・ベルが死亡した。チトラ・ベル氏の死亡に気づいたのはマルギ・シンであった。
ここまでそっくりな事件が3件も続くのは全く不自然であるが、起訴する権限は飽くまで検察にある。
小島氏はこの起訴内容を全面的に否認しました。労務者を暴行したことなどなく、ましてや彼らを死に至らしめたことなどないと主張した。さらに、6名の中のアナンダは全く知らない者であり、また、ナルパスは病死、チトラ・ベルは自殺したと聞いたと主張した。
長瀬弁護人によれば、小島氏のもとで鍛冶として働いていたナルパスはインド人係長の要求で解雇され、その後に労務者担当の寺岡係長によって他の部署の重労働労務者として雇われたが、赤痢が原因で病院で死亡したと言う。
カンダズワミ・ゴンダも鍛冶として小島氏の下で働いていたが、報酬の一部として米が前払いされるとすぐに逃亡した。しかし、1ヶ月後に再び会社に現れたので、宣誓をさせたうえで再雇用されたと言う。しかし、また米が支給されると逃亡し、1ヶ月間姿を見せなかったので、食糧管理も担当していた寺岡氏は怒り、カンダスワミ・ゴンダを小島氏のもとで働かせることを二度と許さなかったと言う。その後、カンダスワミ・ゴンダは他の部署で働いていたが、病気を患い病院で死亡したと言う。このような勤務態度のカンダスワミ・ゴンダに対しても小島氏は、暴力を振るったことはなかった。
また、チトラ・ベル、グル・モハメド、マルギ・シンの3名は米を盗んだことが原因で、寺岡氏の求めで小島氏から寺岡氏に身柄を預けられ、その後チトラ・ベルが自殺したという。したがって、この3名が小島氏から暴行され死亡したということはないと弁護人は主張した。
つづく
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