第30回 ポートブレア編(9)
中野忠二海軍上等機関兵曹は昭和21年6月26日、シンガポールのチャンギーで刑場の露と消えた。その裁判は5月6日から8日の3日間行われ、罪状は次のようなことであった。
被告人は、1944年5月1日もしくはその近日に、ポートブレアにおいて、現地住民オブランに対し暴行、拷問を加え、その結果、死亡させた。
事件までの背景を簡単に説明すると、次のようなものになる。
中野海軍上等機関兵曹は1943年9月からアンダマン諸島ホブディプール村とパソ・ポイントを繋ぐための道路建設工事に携わっていた。彼の任務は工事現場の監督、及びに労務者の監督であった。この建設工事ではハブディプール、オラブリジ、ムスリムブスティの3つの村から労務者が集められた。日本軍側には中野海軍上等機関兵曹の他に上官にM川准尉、同僚にMという下士官がいた。
建設開始から2ヶ月後の11月から翌1月の間に、ムスリムブスティ村に日本のために働きたくないといって仕事をしない労務者がいると、別の労務者が伝えに来た。その働かない労務者がオブランだった。
べイン検察官の主張するところによると、1944年5月当時、オブランはポートブレアで日本軍の道路建設工事に従事する労務者で、中野被告はそれを監督する立場にあったため、ある日オブランを呼び出し、仕事に来ない理由を問い質した。この時、中野被告はオブランにスパイの容疑をかけ、彼に対して殴る蹴るなどの暴行を加えて意識不明にさせた。すると、オブランを目覚めさせて、さらに暴行を続けた。暴行を終えた中野被告はオブランを道端に放置したが、オブランの同僚の労務者たちが彼を自宅まで連れ帰った。しかし、翌朝、彼は自宅で死亡した。
中野海軍上等機関兵曹はこの起訴内容を全面的に否認した。中野海軍上等機関兵曹によれば、オブランははじめ、日本軍のために働くことを拒んでいた。しかし、働いていないにもかかわらず作業場に姿を現すことから、M川准尉が棒でオブランを2、3度殴り、他の下士官にも殴るように命じたという。その時、中野海軍上等機関兵曹は間に割って入り、他の日本人が手を出せないようオブランに2、3度平手打ちを加え、それで済ませた。このことがあってからオブランは働きに来るようになり、中野海軍上等機関兵曹との仲も良好だった。その後オブランの作業場が陸軍の管轄となり、海軍所属の中野海軍上等機関兵曹はオブランと顔を合わせることはなく、彼がマラリアで死亡したと知らされるまで何も知らなかったという。ここで明らかにしておきたいのは、平手打ちがあったのは1943年11月だということである。
検察側の証拠は元労務者であるシェイク・アフメドの証言を中心に成り立っており、弁護側は彼の証言やその他の元労務者の供述の矛盾を指摘し、検察側の証拠に信憑性はないと主張した。
例えば、検察証人シェイク・アフメドは、オブランは1日も働いたことがなかったと述べたが、中野海軍上等機関兵曹の証言によれば1943年11月には、また同僚Mの証言によれば、遅くとも1944年1月にはオブランは仕事に来るようになっていた。
さらに、1943年12月もしくは翌1月頃、ムスリムブスティ村の労務者達にメトケイラでの飛行場建設の命令が下された際、オブランとシーク・アフメド他2、3名の労務者たちが、中野海軍上等機関兵曹を訪ね、彼の元に残れるように頼んできた。中野海軍上等機関兵曹はこれを聞き入れたが、1944年4月上旬には中野海軍上等機関兵曹やオブランたちの担当していた道路建設工事は、仕上げの工程に入ったため陸軍に委ねられた。そのため、彼の元で働いていた労務者の大部分は陸軍の指揮下に入ることになった。その後も中野海軍上等機関兵曹はホブディプールに留まり、兵舎建設作業にあたる労務者の世話などをしていた。
1944年5月に、中野海軍上等機関兵曹はオブランがマラリアで死亡したと聞いた。それを伝えに来たのは、検察証人となったシェイク・アフメドだった。その場には中野海軍上等機関兵曹の他に同僚Mもいて、それを聞いている。
同年7月、中野海軍上等機関兵曹はホブディプールを離れ、シェイク・アフメドともそれきりであった。
ここで重要なのは、このシェイク・アフメドもオブランの死亡は、開墾の始まる雨季の初めの頃、つまり5月だったと証言しており、オブランの死亡時期に関しては検察川も弁護側も一致しているということである。
裁判で明らかにされた点をまとめてみると次のようになる。
1943年9月:建設工事開始
1943年11月~1944年1月:オブラン暴行され、その後は仕事に参加
1944年4月:中野被告、道路建設工事監督の任から離れる
1944年5月:オブラン死亡
これで、検察は中野海軍上等機関兵曹の平手打ちとオブラン死亡の因果関係を立証できたと言えるだろうか。働きに来るようになったオブランを、監督の任を解かれた中野海軍上等機関兵曹が1944年5月に激しく暴行する理由などあっただろうか。
1946年5月8日、ピーコック裁判長が言い渡した判決は絞首刑であった。同年6月22日、刑は確認された。
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