秘録 BC級戦犯裁判 21

第21回 ペナン裁判 (十四)

佐伯一二憲兵曹長は宮城県出身であった。ペナン憲兵分隊での佐伯曹長の任期は短かったが、現地人の情報提供者を使っていたことが仇になったと思われる。日本軍の占領中は忠実に働いていた彼らも、日本の降伏後は日本人を糾弾することでしか生き延びることが出来なかった。しかし、あることないこと何でも証言するものだから、その多くが矛盾だらけであった。佐伯曹長に対する検察証言も例外ではなかった。一例を挙げれば、カクという証人は昭和17年4月から6月にかけて発生したとされるある事件に佐伯曹長が関わったと証言したが、実際のところ、佐伯曹長は4月から6月の間、警務教育のためシンガポールに滞在していたのである。

『世紀の遺書』より佐伯曹長の遺書を紹介したい。

遺言

神霊は頼るべきものに非ず。

自己の最善を尽して後、照覧を賜はらん事を祈るべきものなる事を知る。

「世は一局の碁なりけり」

人間佐伯を堅持して悠々自若たる日本男児の最後の花を飾らんとす。

「タイピン」刑務所中に於ける松本氏の熱烈なる神への教導に対し又職場に於ける厚意とを感謝する次第です。

 昭和二十一年七月二十五日
       陸軍憲兵曹長佐伯一二

東西寛憲兵曹長は茨城県出身。享年三十歳。東西曹長が問われた罪は、被疑者虐待とインド人少年二人の処刑に関与したことであった。虐待については一人が証言し、処刑については二人が証言した。この処刑に関する証言は食い違う所もあった。そもそも、この処刑は、東西曹長の証言するところによれば、ペナン警察署長のS氏から、二人のインド人少年の処刑を命令されたもので、東西曹長はこれを頑として拒んだということである。そして、S氏がピストルで脅したため、同僚のHが命令に従い処刑したという。その時、検察側の証人となった二人はその場にはおらず、二十メートルほど離れたところにいたという。検察側が確たる証拠を提示でなかった場合、疑わしきは罰せずの原則により被告人に有利となるはずであるが、判決は絞首刑であった。

『世紀の遺書』より東西寛曹長の遺書を紹介したい。

  遺書

 東西秋之介殿

一、昭和二十一年十二月九日馬来彼南刑務所に於て死刑を言渡さる。誠に止むを得ざるものあり。

二、現在迄養育し下されし父母上様に何等恩を報いる事の出来なかったのをお詫び申し上げます。

三、爾今命日を十二月九日死刑言渡の日と定め下され度。

四、(略)

五、今絞首刑を明日に控へ思ひついた事を取り纏め歌ったものを次に記す。

六、戦争犯罪者としての汚名は着ましたが笑って死につく、何卒御心配なく見苦しき振舞少しも致さず。

終戦の大詔を畏みて我は守らむ日本武士道

靖国の神となる夢破れ果て捕はれる身は夢の又夢

今は世の別れとなるは惜しまねどせめて告げたや言の葉父母に

彼南刑務所内にて死刑を明日に控へ父上様の幸福を祈りつつ

皆様に宜敷く

昭和二十一年十二月十一日行年三十歳
       東西寛 記す

山桜夜半の嵐に散りぬれど又来る春に花を開かむ

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