『「悪の論理」の現代史』6

地政学の定義

『悪の論理』の中で倉前は地政学の定義について、代表的な学者の言葉をいくつか紹介している。まずはそれらをご紹介したい。

アメリカの海軍兵学校の教科書では、地政学は「政治の地理学に対する関係の科学」と定義されている。アメリカ海軍兵学校とは、メリーランド州アナポリスにある、海軍と海兵隊の士官学校であり、その入学には連邦議会議員か大統領もしくは副大統領からの推薦が必要なほどの、屈指のエリート校である。その卒業生は当然軍人の道を進むのだが、後に政治家に転身するものも多く、アメリカにおけるリーダー養成機関としても機能していることになる。そのような海軍兵学校では当然のこととして地政学を教えているのである。

アメリカの地政学者J・E・キーファー(John Elmer Kieffer)は地政学を「一国の社会的、政治的、経済的、戦略的、地理的な諸要素を研究して、その国の国家の目標の樹立と、それを達成するための対外政策の策定に使うところの学問である」と定義した。キーファーは『Realities of World Power』『Strategy for Survival』『Studies in World Economic Geography』などの著作を残している。

同様に、アメリカの政治学者N・J・スパイクマン(Nicholas J. Spykman)は「一国の安全保障政策を地理学的要索に基づいて計画すること」と地政学を定義した。スパイクマンの著作としては、『America’s Strategy in World Politics: the United States and the Balance of Power』『The Geography of the Peace』などが挙げられる。

また、ドイツの地政学者K・E・ハウスホーファー(Karl Ernst Haushofer)は地政学を「政治的発展に関する地球の科学」と定義した。ハウスホーファーの代表的な著作としては『太平洋の地政学』(Geopolitik des pazifischen Ozeans)がよく知られている。

倉前はこれらを、おおよそ次のようにまとめている。

⑴ 母国を主要要素とする国際経営の理論
⑵ 国家の望むものを獲得するための行動原理
⑶ 世界的勢力を確保するための活動の科学

そして倉前は次のように述べている。

以上のような意味からみても、地政学に「いかがわしさ」のつきまとうことは避けられない運命にある。この「いかがわしさ」は、すべての「生きもの」が生きのびようとする以上、避けることのできないものであるし、すべての国家が生き残ろうと決意し、行動する以上、避けることのできないものである。

この地政学の持つ「いかがわしさ」や「なまぐささ」を、日本では学者と呼ばれる人ほど毛嫌いする傾向にある。彼らは地政学は「学問ではない」、「疑似科学に過ぎない」というのだが、政治学や国際関係論については立派な学問だと思っているらしく、そのような声はあげない。そして、平気で平和学などという学問をこしらえたりする。これらが立派な学問であるならば、世界は既に泰平を謳歌していても良さそうなものだが・・・

地政学が立派な学問であるなどと言うつもりは毛頭ない。しかし、それは政治学も同じことである。所詮、人間の行動を科学するなど、その程度のことでしかない。しかし、その事実を認められるかが問われるのである。なぜなら、地政学や政治学というものは結果として、多くの人々の運命を左右するからである。それだけ武器として有用なものとなり得るからである。倉前は次のように指摘している。

率直にいって、地政学という学問分野は、未だに学問的整合性を完全に持っていない、というより、持たされていないといった方が妥当かもしれない。つまり、武器としてきわめて有用な間は学問的整合性など必要でないということである。そして、もはや武器としてあまり役に立たなくなってから、はじめて学問的整合性が備わってくるものかもしれない。学問というものは、おおむね、そのようなものである。
 最近、流行の公害問題や汚染問題も、科学としての学問的整合性を、未だに持っていない。公害問題は、今ではもっぱら科学以前の動物的情動に訴える怨念として、反体制運動の武器として使われている段階であるから、学問的整合性など、公害運動家にとっては、むしろ邪魔にしかならないであろう。

福島原子力災害以後の原発問題に学問的整合性が全くないのも頷けるであろう。それは、日本人の核アレルギーという情動と結びついて、反体制派にとって頗る強力な武器となってしまったからである。地政学は、政治家、軍人、外交官にとっての強力な武器であるというだけのことである。アメリカの海軍兵学校で地政学が教えれられているという事実がそれを如実に示している。

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