『「悪の論理」の現代史』4

海洋国家VS大陸国家

「悪」とは「しぶとい」という意味で使われていると前回申し上げた。つまり、「悪の論理」とは、冷徹な国際競争の原理ということである。これは国際政治学の言葉を借りていえば、現実主義(リアリズム)ということになる。地政学はこの中の一つの分野であるといえるだろう。他の学問同様、リアリズムにも様々な流派があり、それぞれの見方で世界の動きを追っているのであるが、共通する価値観というものがある。それが、国家の生存と国益の追求である。リアリズムはこれを前提にして、世界の動きをつかもうとする学問である。

しかし、国家が追求するべき生存と国益は、国家を構成する民族や文化などが異なれば、自ずと形を変えてくるであろう。そして、ここで見落としてならないのが地理的要素である。例えば、周囲を海に囲まれている国家と、海とは一切接していない国家では、生存の方法や何が国益となるのかが、根本的に異なってくるはずである。海を見たことのない者には海上の自由の利便性はわからないし、海に生きる者には、交易を行える一方で同時に脅威をももたらす陸路の伝播力を肌身で感じることはできないであろう。国家はビリヤードボールのように全てが同じ形をしていて、同じ動き方をするわけではないのである。つまり、地政学は国家の行動原理に地理的要因を組み込んだリアリズムといえるだろう。

したがって、地政学の最も基本的な考え方として、国家を海洋国家と大陸国家に分類してそれらの行動を説明しようとすることが多く見られる。国家にはそれぞれ特性があり、向き不向きがあるといえよう。例えば、アメリカ、イギリスは海洋国家であるので、彼らの持つべき戦略、地政学は海洋型発想に基づくことになるし、ロシア、ドイツ、中国などの大陸国家は当然、大陸型の発想に基づいて戦略をたてることになる。

では、日本は大陸型と海洋型のどちらに基づいて戦略を立てるべきであろうか。倉前は『悪の論理』の中で次のように述べている。

日本はいうまでもなく海洋国であるから、地政学の発想も海洋型でなければなるまい。事実、明治二十年代から大正のはじめ(1890年から1915年頃まで)の日本の戦略は明らかに海洋型であった。その結果、大幅な国力の伸長をみせたのであるが、不幸にして大正七、八年頃から昭和二十年頃まで(1915年から1945年頃まで)の間は、日本の陸軍参謀本部を中心とする勢力が、ドイツ流の大陸国家型地政学に心酔してしまった。ここに日本の失敗の最大の原因がひそんでいた。

この指摘は実に興味深い。確かに、日本の国際戦略がうまくいっていたのは第一次世界大戦(1914-1918)までである。これはまた、薩長出身の陸海軍の指導者たちが健在であった時期まで、とも言えるかもしれない。この薩摩、長州は当然、西日本に位置するわけだが、そこには海洋民の気風が色濃く残っていたと考えられる。これは倉前が『艶の発想』の中で指摘していることでもある。明るく開放的な気質を持ち、通商にも明るい西日本の民に対し、東日本の民は素朴で勤勉で閉鎖的な内陸的な気質が強く、農本主義的な発想が根強い。そして、江戸幕府はこの農本主義的な発想で政治を行ったと言える。その幕府を倒す原動力となったのが西日本の雄藩、薩摩と長州だったわけである。特に、薩摩が貿易で蓄えた資金、そしてそれによって手に入れた最新兵器がものをいったのである。長州は陸軍のイメージが強いが、下関という海の要衝を握り、瀬戸内海で活動してきた国である。本質的には海の民である。

しかし、そんな薩長主導の陸海軍も終わりを迎えることになる。特に陸軍では、優遇される旧長州藩出身者への風当たりは強くなる一方で、ついに長州閥に反旗を翻す者がでてきた。その旗頭が井口省吾という人であった。井口家は駿河国の出身であった。駿河といえば、当然、徳川の根拠地の一つに数えられる。井口は陸大の校長を明治三十九年二月から大正元年十一月の七年弱務め、その間、長州出身の専任教官を採用しない方針をとった。さらに、その十二年後、陸大教官の筒井正雄と桑木崇明は山口県出身者を陸大に入れないという方針をとったのである。その結果、陸大37期から39期まで、旧長州出身者は皆無となり、大東亜戦争直前の昭和16年10月には、陸軍省と参謀本部の課長以上に長州出身者はいなくなった。

では、陸海軍での薩長の穴を埋めたのは誰か。大雑把にいえば、旧幕臣の家の出身者や東北出身者が昭和の陸軍を仕切ったといってもよいかもしれない。つまり、ここで東日本の勢力が再び西日本を逆転したということになる。例えば、東條英機の家は盛岡出身で、父東條英教は井口省吾の親友でもあった。首相を務めた小磯國昭陸軍大将は栃木県出身で、父は山形県士族であった。板垣征四郎も盛岡出身で、祖父は盛岡藩士であった。板垣は仙台陸軍幼年学校の出身であるが、彼の他にも仙台陸軍幼年学校出身の陸軍指導者は多い。石原莞爾は山形県出身で仙台陸軍幼年学校を出ている。土肥原賢二は岡山県出身だが仙台陸軍幼年学校に入った。岡村寧次は東京出身で東京陸軍幼年学校を出たが、そもそも岡村家は三河以来の直参旗本の家である。支那派遣軍総司令官を務めた畑俊六元帥の父は会津藩士であった。また参謀本部作戦部長を務めたことで知られる田中新一は新潟県出身で、やはり仙台陸軍幼年学校の卒業。参謀本部作戦課長を務めた服部卓四郎は山形県出身で同じく仙台陸軍幼年学校卒業。また、参謀本部作戦課長と陸軍省軍事課長を務めた真田穣一郎は北海道出身で、彼もまた仙台陸軍幼年学校の卒業生である。 

問題は、彼らが海洋型と大陸型のどちらの戦略により親しみを感じるかである。おそらく、西日本が持つ開放的で明るい気質に基づいた海洋型の発想は彼らの好むものではなかったのではあるまいか。素朴で勤勉な農本主義的な気質に親しみを感じる東日本出身の軍人たちが大陸型の地政学に心酔してしまったとて、何の不思議もない。しかし、それが日本という四方を海に囲まれた島国が取るべき戦略かどうかは全く別の次元の問題である。海洋国家である日本が大陸型地政学を採用し、結果、敗れた。倉前のこの考察は、かの戦略的失敗を考える上で、見落とされれがちな視点を提示してくれているように思われる。もちろん、陸軍がドイツ型をモデルにしたのはだいぶ前からで、ドイツ留学が陸軍将校のエリートコースだったこともあり、一概に出身地だけで説明することはできない。海洋型戦略をとれば、憎き海軍を利するだけだと考えたのかもしれない。しかし、それでもやはり、あの陸軍の硬直ぶりを見ると、何らかの文化的要因が働いているように感じられるのである。

ちなみに、海軍の米内光政は盛岡藩士の家柄であり、山本五十六は新潟長岡の出身である。

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