醜のますらをになれ
これまで述べてきたことを簡単に、倉前の言葉を借りていえば、
世界を動かすものは常に悪党たちであり、悪人の論理、悪党の戦略哲学を知らずして、国際的な活動はできない。
ということになる。この点が、現代の日本人には足りないと倉前は述べているわけである。しかし、ここだけを強調すると、やはり、「悪」について勘違いする人が出てきてしまうかもしれない。前述のように、倉前が用いる「悪」は「邪悪」とは違う意味であるが、倉前はそれを次のようにも説明している。
日本人は昔から「悪」という言葉に、強靱で、しぶとく不死身という意味を持たせていた。つまり「ええ恰好しい」ではなく、世の毀誉褒貶や、事の成否を意に介せず、まっすぐに自己の信念をつらぬいた人の強烈な荒魂を、崇め安らげる鎮魂の意味で「悪」という文字を使用してきた。これは日本人の信仰の深淵に根ざすものかもしれない。
日本の社会は昔から女性的で優美な「もののあはれ」という美学を、生活の規範としてきた社会であり、男性的な硬直した儒教論理や、キリスト教、マホメット教のような一神教的男性原理によって支えられている社会ではない。それゆえ、男性的な行動原理に身をおくとき、日本の伝統美学から、やや遠ざかっているという美意識が生じてくる。それゆえ、一種の「はにかみ」をもって、「悪」とか、「醜(しこ)」と自称したのであろう。
この倉前の記述は、日本人の精神構造を知る上で、欠くことのできない視点をわれわれに提供してくれる。普段、われわれ日本人はこのようなことはすっかり忘れて平穏に暮らしている。そんな温和な日本人も時として鬼のように豹変することがある。わかりやすい例をあげれば、戦国時代、明治維新、大東亜戦争などがそれにあたるだろう。もちろん、日本人自身、それを言われるまでまるで意識すらしてこなかったに違いないのである。ただ、言われてみれば、確かにそうかもしれぬと思いあたるが、やはり何だか恥ずかしい気もする。このようなメンタリティを持っていることを、われわれ日本人は知っておくべきであろう。そうでないと、日本の歴史をよく理解できないことにもなりかねない。
倉前も例に挙げているが、太平記に「河内に楠木という悪党ありて」という記述がある。日本史の授業でも中世の「悪党」という言葉は覚えさせられるが、一体何のことだかわからないままで済ませているのではないだろうか。この言葉をそのままに取れば、「楠木正成は悪い奴」ということになりかねない。また、中世の日本には楠木正成のような人物に率いられた「ギャング団」が跋扈していた、と思い込むものも出てこよう。だから、日本人が用いてきた「悪」の本質的な意味を理解する必要があるのだ。
これは倉前が述べていることではなく、まったくの余談だが、食物などに含まれる「アク」も「しぶとい、渋い」という意味からきたものではなかろうか。日本人は漢字を用いることによって、言葉の本質を多少見失ってしまったようだ。たまには漢字の枠を外して見るのもよい。
太平記からさらに時代を遡り、万葉集を見てみると、「醜のますらを」という言葉を見つけることができる。
丈夫(ますらを)や片恋ひせむと嘆けども醜の丈夫なほ恋ひにけり
この歌はは舎人皇子の御歌で万葉集第二巻(一一七)に収められている。そもそも「ますらを」とは、「益荒男」という漢字も当てられるように、「強い男」という意味の言葉であり、それに「醜」をつけると、さらに「強さ、強靭さ」が増すわけである。そんな「醜のますらを」が片思いして、弱音を吐いているところが、この歌の歌たる所以である。面白いことに、この舎人皇子の政治家としての手腕は大したもので、盟友、長屋王を自死に追い込むほどであった。正真正銘の「醜のますらを」である。
この他に、万葉集には「醜の御楯」、「醜の醜草」などの言葉が見られるが、意味に大きな違いはない。「強靭」、「しぶとい」、「不死身」という意味で、そこには国を守る気概、大君を守る誇りが伺える。また、余談だが、力士の四股名はもともと醜名と書いた。これは「逞しい名」という意味である。
脆く、はかないものを美しいとする日本の伝統的美学の中では、強靱で不死身なものは、醜になり、悪になるのである。ここのところの日本の美学的発想がまだ外国の人々には、よく理解されていないようである。
この倉前の言葉は、残念ながら、現代の日本人にも語り聞かせる必要があるように思われる。しかし、一度聞けば、腑に落ちるに違いない。倉前はそれを期待して、『悪の論理』を世に送り出したのである。日本人よ、今こそ「醜のますらを」になる時である、と。倉前は次のように述べている。
これからの国際ビジネスマンは、人の見ていないところで、国を支えてゆく「醜のますらを」であり、「悪源太」であることを、ひそかに誇りとすべきであろう。そして小善人になり上がることをもっとも恥とすべきである。もし、読者諸氏がスタンドプレーが好きで、進歩派やハト派のポーズをとることの好きな「ええ恰好しい」の人士なら、この書を読んでいただく必要はない。「罪業深き悪念なれども」と意を決し、あえて「悪」と「醜」の名のつく男になろうと決意している人なら、この書は少しばかりお役に立つかもしれない。
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