『「悪の論理」の現代史』9

ハワイ併合

アメリカの太平洋戦略において最も重要な一手はハワイ併合であった。それは、現在もアメリカ太平洋軍の司令部がハワイに置かれていることを見れば明白であるし、先の大戦で日本海軍がハワイ真珠湾を先ず叩いたのも、その戦略拠点としての重要性のためである。とはいうものの、ハワイがアメリカの一部になったのはそれほど昔の話ではない。今からおよそ120年ほど前のことなのである。そのアメリカによるハワイ併合について、『悪の論理』の中で倉前は次のように述べている。

たとえば顔に墨を塗ってハワイ人に化けた米国人が、ハワイでクーデクーを起こし、ハワイ王国を倒して共和制をしいたのち、一八九八年(明治三十一年、)ハワイを併合して米国領とした。これを予感したハワイ国王が明治天皇に援助を依頼してきた話は有名である。

このことについて、ほとんどの日本人は詳しいことを知らないであろう。太平洋の島国ハワイがなぜアメリカの州なのか、何の疑問も持たぬまま毎年多くの日本人がハワイに旅行へ出かけるのである。しかし、なぜアメリカがハワイを併合したのかを知らなければ、なぜ日本が真珠湾を攻撃したのかも分からず、つまりは世界史における重要な鍵の一つを失くしたままとなる。であるから、ハワイ併合の歴史を簡単にご紹介しておきたい。

ハワイの国王の名前を挙げよと言われたら、多くの日本人はカメハメハ大王をあげるのではないか。この国王は1810年にハワイ諸島を統一して初代国王となったことから大王と呼ばれるが、カメハメハ1世とも呼ばれる。そこから時代が下り、1840年、国王カメハメハ3世はハワイに立憲君主制を導入した。その政治形態がイギリスのものを参考にしてつくられたことからもわかる通り、この頃のハワイは親英政策をとっていたのである。そして、憲法と立憲君主制の制定の甲斐あって、アメリカ、イギリス、フランスはこの小さな王国を独立国として承認していったのである。しかし、ここからハワイの苦難の歴史が始まる。欧米人がハワイに帰化し始め、国内での発言権を強めていったのである。

1844年、帰化を条件に欧米人が政府要職に就くことが認められた。そして、1850年には外国人による土地所有が認められるようになり、12年後にはハワイの4分の3の土地は外国人の所有になっていた。1855年にカメハメハ4世が王位に就く頃には、国内はイギリス人、アメリカ人、ハワイ人の三勢力に分かれるようになっていた。この中でアメリカ人勢力は、ハワイをアメリカ合衆国の一部にしてしまおうと画策し始めるのである。アメリカからは地理的にも近く、多くの資本が流入してきてもいた。すると、アメリカ人勢力を牽制するためにカメハメハ4世はイギリスにさらに接近していった。

1863年にカメハメハ4世の兄であるカメハメハ5世が王位を継ぐと、親英政策に危機感を抱いたアメリカ人勢力は、アメリカへのハワイ併合を実現しようと動き出した。1872年、後継のいないままカメハメハ5世が崩御すると、国王の決定は議会に委ねられ、国王選挙が行われることとなった。その結果、親米派のルナリロが国王に即位した。親米のルナリロはアメリカ人を閣僚に迎え入れ、政治的にも経済的にもアメリカに傾斜していった。しかし、2年たらずでルナリロも崩御してしまい、再び国王選挙となった。そうして新国王カラカウアが即位した。

1874年に即位したカラカウアは、アメリカを訪問する。その目的は、貿易関税撤廃相互条約を結ぶことであった。これによりハワイからのアメリカへの輸出は非課税となったが、アメリカもそれ相応の見返りを得ている。その条約の第4条には、アメリカ以外の国にはハワイのいかなる領土も譲渡、貸与することを禁じること、いかなる特権も与えないことが盛り込まれた。これにより、イギリスとアメリカによる勢力争いは、アメリカに軍配が上がったと言えよう。

しかし、国王カラカウアはアメリカを牽制するためにある策を思いつく。1881年、世界一周旅行に出かけたカラカウアが日本に立ち寄った際、明治天皇に会い、姪のカイウラニ王女と皇族の山階宮定麿王との縁談を持ちかけたのである。王女は王位継承者という立場のお方、また、山階宮定麿王はのちの東伏見宮依仁親王となるお方であった。さらに、カラカウアは日本人によるハワイ移民を促進することも要請した。1871年に日本とはハワイは日布修好通商条約を結び、その頃から日本人のハワイ移民は始まってはいたが、さらなる移民を要請するとはどんなつもりであったのか。これは縁談の申し入れと合わせて考えれば明白で、アメリカへの牽制が目的であった。太平洋の東端にあるアメリカを牽制するには西端にある日本に助けを求めるという、至って単純明快な理屈である。しかし、当時の日本政府はアメリカに気兼ねして、この縁談を丁重に断ってしまった。実際、当時の日米の国力差を考えれば無理もない。しかし、もし、この時の縁談が上手く運び、日本とハワイが姻戚同盟を結んでいたら、その後の世界の歴史は違う方向へ進んでいたかもしれない。

その後のハワイは、親米勢力の台頭にどうすることもできず、1887年にはついに真珠湾の独占使用権をアメリカに与えてしまう。同じ頃、白人系秘密結社ハワイアンリーグと白人義勇軍ホノルルライフルズはその武力によって、カラカウアに新憲法を認めさせることに成功した。これによりハワイ人を含む非白人庶民から選挙権が剥奪された。選挙権を持つのはハワイ人のエリートと富裕な白人住民だけとなった。さらに、1890年、アメリカ連邦議会は関税法案を可決する。これにより、製糖業に頼るハワイ経済は事実上破綻してしまうのである。そうして、これを解決する選択肢として、アメリカ編入が現実味を帯びてくるようになった。

そんな中カラカウアが崩御し、1891年、妹のリリウオカラニ女王が王位につくと、親米派と王党派の対立がさらに激化してゆく。王党派は新憲法の制定を画策し、これに対抗し親米派はハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立を目指した。この動きを主導したのが、アメリカの駐ハワイ公使ジョン・スティーブンスであった。1892年、親米派は秘密結社「併合クラブ」を設立し、ハワイ革命へ突き進んでいく。

1893年、親米派ホノルルライフルズは女王を糾弾する市民集会を開き、これに合わせ、アメリカ公使スティーブンスはアメリカの軍艦に海兵隊の上陸を要請した。その理由は、ホノルルが非常事態に陥ったことにより、アメリカ人の生命と財産、安全を確保する必要があるというものだった。これに応え、海兵隊164名が上陸した。その後、親米派によって政府庁舎は占拠され、暫定政府の樹立が宣言された。

各国は暫定政府を事実上の政府として承認し、さらにアメリカは、暫定政府からの併合要請を受ける形をとった。しかし、当時就任したばかりのアメリカ大統領クリーブランドは、この併合の経緯を調べた結果、正当な根拠がないと断じ、公使のスティーブンスを更迭してしまう。その後、アメリカの指導でハワイ国王復位の方向で話が進むが、これに反発するハワイ暫定政府はハワイ共和国の成立を宣言してしまう。こうして白人国家ハワイ共和国の初代大統領にサンフォード・ドールという親米派指導者が就任した。

この時、日本はハワイ王党派からの援助要請に応え、東郷平八郎を艦長とする巡洋艦浪速ほか二隻をハワイに派遣している。日本海軍の軍艦はホノルル軍港に停泊し、親米派勢力を威嚇したことはよく知られている。

しかし、アメリカによるハワイ併合の流れは止められず、アメリカの新大統領にマッキンリーが選出されるとそれは確定的となった。1898年、ついにハワイ併合決議案が議会を通過し、同年7月7日、マッキンリー大統領は決議案に署名した。これによりハワイはアメリカ合衆国に編入されることとなった。その95年後の1993年、アメリカはハワイに対して、その併合のプロセスが違法であったということで謝罪したが、100年後に謝罪したところでアメリカは痛くも痒くもないだろう。

ちなみに、フルーツの会社として有名な「ドール」は、ハワイ共和国のドール大統領の従弟がハワイに移住して起こした会社に由来する。パイナップルを口にする時、ハワイの歴史を思えば、多少の苦味は感じてもよいかもしれない。

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