『「悪の論理」の現代史』7

サイパンと「マハンの地政学」

倉前がまだ元気な頃、倉前は毎年学生たちを連れてサイパンを訪れていた。その目的は、先の大戦の時に島に取り残されたご遺骨の収拾と御霊の慰霊であった。倉前はなぜサイパンにこれほど深い思い入れを持っていたのだろうか。

サイパンについてあまりご存知でない読者もおられよう。簡単な描写だが、倉前が『悪の論理』で記したものを紹介したい。

昭和十九年六月十一日、サイパン島を包囲した米国の大艦隊から発射される、想像を絶する量の艦砲の制圧下、約六万人の米海兵隊および陸軍が、サイパン島の西岸に一斉に上陸を開始し、そこで血みどろの戦闘に入ったのであるが、米軍の戦死者一万二千五百人、日本軍三万人以上が戦死し、文字どおり、サイパンは玉砕したわけである。
サイパン島は砂糖きびが全島くまなく植えられ、軽便鉄道もひかれていたほど開けていた南海の楽園で、人口は数万人に達していたが、戦局、急を告げるや、婦女子の多くは内地へ引き揚げた。その途中、米潜水艦の餌食になって、海へ沈んだ婦女子も少なくない。
サイパンの日本軍が壊滅したあと、島の北側へ追いつめられた婦女子たちは、日本を望む北側の断崖、シーサイド・クリーフとバンザイ・クリーフから、次々に身を投じて決し、その数、数千人に及んだ。米軍は、その自決を止めようとしたようであるが、とても及ばなかったという。

南海の楽園と呼ばれたサイパンは、まさに悲劇の島となった。そこに敵も味方もない。そして、その時代を生き延びた者として倉前は、この島で鎮魂の祈りを捧げずには居られなかった。この鎮魂の思いなくしては学者としての倉前は存在し得なかっただろう。

しかし、なぜ、南海の楽園・サイパンが太平洋戦における、大激戦地と化したのであろうか。その理由なくして、あの悲劇は生まれなかったはずである。その答えは実は地政学にある。そして、それ故に、地政学者として倉前はなおさらサイパンの悲劇の運命に思い入れを深くしたのではないだろうか。

この太平洋における「海の地政学」を確立したのは、アルフレッド・セイヤー・マハンという19世紀のアメリカの海軍将校であった。マハンの書いた『海上権力史論』は、「海の地政学」を学ぶ者にとっては、いわばバイブルのような存在となった。したがって、19世紀の末以降は、アメリカ海軍も日本海軍も共にマハンの地政学を仰ぐ「兄弟弟子」であったと言って良いかもしれない。そして、太平洋で激突したのである。

この「海の地政学」を学ぶ者たちにとって、サイパン島は西太平洋の要石であることは常識であった。実際、日本の本土を爆撃し、主要都市をことごとく焼き尽くしたB29、そして広島と長崎に原爆を落としたB29は、サイパンとテニアンの両島から飛び立って襲来してきたものである。つまり、サイパンの陥落は日本の制海制空権の喪失を意味し、それを握ったアメリカの勝利はここで確定的となったのである。

これを知らないと、サイパンを巡って日米が激闘を繰り広げた意味がわからないし、倉前があれほどサイパンでの慰霊に思い入れを持っていたのかもわからない。

『悪の論理』の中で、倉前は次のように嘆いている。

大東亜戦争は昭和十九年のサイパン島の陥落をもって実質上、勝敗が決した。ところが案外、このことが認識されていない。日米が、広大な太平洋の制海権を争って戦った「太平洋戦争の本当の意味」を、戦後日本の思想、学術の専門家たちは故意に見落としてきた。しかも、学校教有においても、マスコミ界においても、学界においても、「海を制する者は世界を制す」という海洋戦略を生み出したアルフレッド・セイヤー・マハンが、米国の海軍将校であり、十九世紀末以来、終始一貫して、マハンの教科書どおりに米国が行動してきたことについて、いっさい、教えようとも、語ろうともしなかった。

日本人は、もう一度あのサイパンの悲劇を心に刻み、「太平洋の悪の論理」を取り戻すべきである。これが倉前がサイパンに託したメッセージではないか。

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