倉前盛通の著書『悪の論理』の中に、かつて昭和研究会のメンバーであった酒井三郎氏が昭和三十九年十月号の文藝春秋に発表した「昭和研究会の悲劇」という回顧録の一節が引用されている。以下はその抜粋である。
ただ、私には一つの印象に残っていることがある。支那事変が起こった後、私たち昭和研究会の中心メンバーは、一貫して、事変不拡大を唱えていたが、尾崎君は、あるとき突然に積極論者となり『漢口攻略をやるべし』との意見書を後藤氏のところにもってきたことがあった。支那の動脈を叩かなければ支那事変は変わらない。その動脈に当たる漢口を徹底的にたたくことが先決問題だ、と彼は主張し、この意見書は近衛公と軍に出すのだと、いきまいていたのがきわめて印象的であった。
漢口は当時蔣介石が本拠地としていたところである。そこを攻略すべしというのは、一見至極真当な意見のように見えるが、実はそうではない。漢口にまで戦線を拡大するということは、英国を完全に中国側につかせてしまうことを意味する。
実際、1938年6月から10月にかけて武漢作戦が行われ、その結果、蔣介石は漢口を捨て重慶に拠点を移し、かえって泥沼化した。これによって、英国には武漢の次は広東ではないかという懸念が生じる。広東は中国における英国の拠点である。そこに日本の手が及ぶことを英国が嫌うことは誰の目にも明らかだ。
1938年から1939年にかけて、英国内でも日英関係改善に動いていた人たちがいて、中国支持に傾いていた英外務省もこれを無視することはできなかった。しかし、日本が中国で戦線を拡大するというのであれば、広東を守る為にも蔣介石を支援するという流れが当然強まる。そして、これが現実のものとなったわけである。
英国まで仲間に加わって、得をしたのはソ連と蔣介石であった。ソ連のスパイ尾崎秀実が戦線拡大を強く主張したのだから、その結果は当然という他ない。
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