明治維新と「怨念」

今年は明治維新から150年の節目の年だ。

今年のNHK大河ドラマの主役が西郷隆盛なのはそれも理由なのであろう。こうして多くの人が明治維新に想いを馳せるのはよいことだと思う。

が、それにして、明治維新ほど「ケッタイ」な出来事は滅多にお目にかかれないのではなかろうか。維新というからには「復古」運動を推し進めなくてはならないのに、蓋を開けてみれば「西洋化」つまり「近代化」の一辺倒である。「王政復古」と言いながら西洋式の「立憲君主制」に落ち着き、それが「天皇機関説」が生まれる土壌となった。中央集権の統一国家を成立させたが、それを運営する官僚機構と官僚を選抜するための試験制度は、良かれ悪しかれ、中華帝国の官僚機構と科挙制度を彷彿とさせる。しかし、これは日本が近代化する以前は避けてきた道ではなかったか。

そして、数ある明治維新の「矛盾」の中でも、小生が最近気になっているのが「怨念」である。近代化と四民平等により、藩や身分の垣根のない「国民」をつくったのはよいが、同時に、特定の地域や出身の間で激しい「対立」も生んでいる。その典型は「長州」対「会津」の構図であろう。もっと大きくみれば、「長州」対「旧幕臣」と言えるであろう。

明治政府は旧幕臣をも登用するようになったのだから、そのような対立などすぐに解消して、大した問題ではなかったと、おそらくほとんどの人が考えているだろう。小生もそうであった。倉前の『運命の構造』(旧題『悪の運命学』)を読むまでは。

倉前の懸念は、祖父、父の代の明治体制への「怨念」を受け継いだものが、試験に合格して明治体制の中枢に入ったとき、潜在意識でマイナスのシナリオを描くのではないかということである。倉前は先の大戦を主導した陸海軍の将軍や提督の出身を挙げ、これを指摘する。

この「怨念」がどれだけ政治、軍事に影響を及ぼしたかを測る客観的な資料は存在しないだろう。だが、歴史の断片からその「怨念」を窺い知る事はできよう。小生の研究分野の一つから、ある事実をご紹介したい。

大日本帝国陸軍は明治維新の流れで、長州と薩摩が作ったと言っても過言ではない。最初の陸軍大将は薩摩の西郷隆盛であったが、その薩摩は西南の役で陸軍での主導権を失う。その後、長州が主導する陸軍が長く続く。その重鎮が山縣有朋であった。事実、陸軍で長州閥は優遇されてきた。

しかし、その長州閥に反旗を翻した軍人が出てきた。その旗頭が井口省吾という人だ。この人は駿河国の出身であった。駿河といえば、徳川の根拠地の一つである。井口は陸大の校長を明治三十九年二月から大正元年十一月の七年弱務めたが、その間、長州出身の専任教官を採用しない方針をとった。さらに、その十二年後、陸大教官の筒井正雄(長崎県出身)と桑木崇明(石川県出身)は山口県出身者を陸大に入れないという方針をとった。その結果、陸大37期から39期まで、山口県出身者は皆無となった。この影響は思いの他大きく、大東亜戦争の直前の昭和十六年十月、陸軍省と参謀本部の課長以上に長州出身者はいなくなった。

つまり、先の大戦を主導した陸軍中枢に長州出身者はいなかったのである。戦争を指導する立場にあった軍人たちの中に次のような人たちがいる。
東條英機 盛岡出身 東京陸軍幼年学校 父東條英教は井口省吾の親友
小磯國昭 栃木県出身 陸軍大将 首相 父は山形県士族
板垣征四郎 盛岡出身 仙台陸軍幼年学校 祖父は盛岡藩士
石原莞爾 山形県出身 仙台陸軍幼年学校
土肥原賢二 岡山県出身 仙台陸軍幼年学校
岡村寧次 東京出身 東京陸軍幼年学校 家は三河以来の直参旗本
畑俊六 支那派遣軍総司令官 元帥 父は会津藩士
田中新一 新潟県出身 仙台陸軍幼年学校 参謀本部作戦部長
木村兵太郎 広島県出身 広島陸軍幼年学校 陸軍次官
田辺盛武 石川県出身 広島陸軍幼年学校 参謀次長 父は加賀藩士
佐藤賢了 石川県出身 陸軍省軍務局長
服部卓四郎 山形県出身 仙台陸軍幼年学校 参謀本部作戦課長
真田穣一郎 北海道出身 仙台陸軍幼年学校 参謀本部作戦課長、陸軍省軍事課長
荒尾興功 高知県出身 仙台陸軍幼年学校 参謀本部船舶課長
辻政信 石川県出身 名古屋陸軍幼年学校 参謀本部作戦課
高山信武 千葉県出身 仙台陸軍幼年学校 参謀本部作戦課

他にも重要人物はいるが、上記の人々に共通な部分は何となく見えてこよう。
特に、仙台陸軍幼年学校は東北の親徳川の気風のためか、「反骨」が校風であるし、どこか「反明治体制」に繋がるものがあるのではないか。

もちろん、彼ら一人一人は「大日本帝国」というものに忠義を尽くしていただろう。少なくとも顕在意識では。しかし、倉前が指摘するように、どうも潜在意識では、薩長が打ち立てた「明治体制」を解体する方向に向かっていたのではないか。それならそれで仕方ないと思う。しかし、最後に一つ指摘しておきたいことは、日清・日露の戦を勝利に導いたのは紛れもなく薩長主導の陸海軍であって、旧幕府側の人間は戊辰戦争以降、勝ち戦の経験がないということだ。つまり、先の大戦は戦の勝ち方を知る薩長抜きで戦われたということになる。

その「怨念」もまた明治維新の一つの帰結なのであろう。そして、それは敗戦とともにほどけた思いたい。

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