昨日は浅草は浅草寺に参詣した。ほうずき市で賑わう浅草寺境内は、庶民の活気に溢れ、これも観音様のご利益だと感じた。この庶民の活気こそ、日本社会の根底に流れるものであろう。
このように、庶民のエネルギーと神社仏閣が切っても切れぬ関係にあるのは疑いのないところであるが、今まで、どうも仏教と日本社会の関係に疑問を感じないでもなかった。それには色々な理由があるのだが、主なものを挙げるとすれば、本地垂迹(ほんじすいじゃく)の説になろうか。この説、簡単に言えば、「日本の八百万の神々の本当の姿は、実は仏さんなんです」というもので、神社にしてみれば「詭弁」と呼べるものだろう。
日本の庶民はこの「詭弁」を受け入れたというより、外国の「神様」を受け入れたということかもしれない。しかし、よく見ると、この外国の「神様」たちはある特定の役割しか与えられていないのがわかる。その役割とは「死」と「病」に対処することである。
対照的に神道の神様たちは「生」と「繁栄」に関する分野を担当している。これは「むすび」と呼ばれる。世の中のもの全て、生まれて来るには神様の「むすび」の力に依る。国学の考えはこれである。
したがって、「ほとけ」は何も生産しないじゃないか、と国学者が仏教に批判的になるのも頷ける。小生もそのように考えてきたのだが、倉前盛通の『自然観と科学思想』を読んで、その考えを改めた。まさに、目から鱗、であった。
それまで「仏」をなぜ「ほとけ」と読むようになったのか気づかなかったが、これは「解け(ほどけ)」のことかと、『自然観と科学思想』を読みながら思わず膝を打った。
神社の神様たちは「むすぶ」ことはできるが「ほどく」ことはできない。だから、人が死んで解けて自然に帰るために「ほとけ様」が必要となる。つまり、仏教という宗教と「ほどけ」の観念がうまく合致した結果が、日本の仏教なのである。小生の中で何かが「ほどけ」た思いがした。
九平次
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